更新日: 2024.12.03 17:12
【RACERS重版出来記念】「もう負けは許されなかった」1983年型NS500 LPL/元ホンダ代表取締役社長 福井威夫氏インタビュー
ホンダがWGP500ccクラスで初めてのタイトルを獲得した1983年。ワークスチームの総責任者、そしてNS500の開発総責任者(=Large Project Leader:LPL)であったのが2009年6月までホンダの社長を務めた福井威夫さんだった。やはりLPLとして力を注いでいたNR500から開発の主力をシフトさせ、いかにタイトル獲得へと邁進されたのかを、いま改めて聞いた。
1977年12月、ホンダは1967年を最後に遠ざかっていた2輪世界グランプリロードレースに1979年から復帰する、という、いわゆる「世界グランプリ復帰宣言」をぶち上げる。そして1978年2月に、専任部隊のNRブロックが朝霞研究所内に立ち上げられた。この時の社内の企画書には、「3年以内に世界チャンピオンを獲得する」ことが目標として記されていた。
そして宣言どおり、1979年8月のイギリスGPから8バルブ・長円ピストン・エビ殻フレームの革新的GP500レーサー、NR500とともに参戦を開始するが、優勝どころかポイント獲得すらままならぬ戦いが続く。そしてNRが初のフルシーズンに臨もうという1981年1月、新たな2ストロークGPロードレーサー、NS500の開発が通称「ミラーボールの間」で極秘裏にスタートした。
⎯⎯レーサーズ(以下「R」):NRをまだ全力でやられていた最中に、新たにNSを始められることになった。まず、このあたりのことからお聞きしたいのですが。
⎯⎯福井威夫氏(以下「福井」):NRをデビューさせたのが1979年だよね。だけど、それからずっと、ほとんどノーリザルトだったわけだよね。1980年も1981年もノーポイント。4ストロークの特別なエンジンだったから、ということももちろんあるけど、車体剛性、サスペンション、ブレーキと、いろんなものが勝ちにいくレベルに達していなかった、というのが本当のところだった」
「水冷技術も空力もまだまだ。それらをエンジンと一緒に、どんどん進化させていったわけですよ。必死になってやっていったんだけれども、結果が出ない。これだけ負け続けるっていうのはね、現場の人間はもう耐えられないね、精神的に。NRでもいつかは勝てるかもしれないけど、時間もかかるし相当大変だぞっていうのはみんな認識していたわけだね。
⎯⎯福井:そういう状況のところへ、当時のモトクロスチームのリーダーで、私の上司だった宮腰(信一)さんが2ストロークの3気筒というコンセプトを立てて、これでやろうということに大筋ではなったわけですよ。ただ、すぐには踏み切れなかったんだ。それで、あのとき吉野(浩行)さんが絶妙の采配をしてくれて、NR部隊の中でNSをやることになった。もし、NR部隊と別個にNSの2ストローク部隊を作ってたら、多分うまく行かなかったと思うね。それで、当時NRは私がLPLをやってたもんだから、「NSもお前のところでやれ」ということで2本立てになったわけですよ。NRを転がしながらNSを開発する、というね。
⎯⎯R:NRを一生懸命やってこられたところで、勝つためのバイクとして2ストロークをやる、ということに抵抗はなかったんですか?
⎯⎯福井:エンジニアをやっている一部の人間にはそういうものもあったかもしれないけど、私も含めたほとんどの人間は、もうちょっとクールだったよね。別に4ストロークが好きだからやっているわけじゃなく、勝つためにやっているんだ、と。NRだって、すぐ勝てるとは全然思っていなかったけど、勝てる見通しがあってやったわけでね。
⎯⎯R:ただ、ホンダとして勝つための本命がNRからNSにシフトする件について、福井さんは入交(昭一郎)さんのところに資料を持って抗議に行かれたと聞いていますが。
⎯⎯福井:うん、そうね。当時はまだNRの性能を全部出したと思ってなくて、やり切ってない点がいっぱいあって、それらを潰していけば十分戦えるっていう信念でやってたからね。それは2ストロークでもできるんだろうけど、4ストロークでやった方がいいじゃないか、ややこしいことになるんじゃないか、ということでね。だって、2ストロークなんか面白くないよね(笑)。
※中略
⎯⎯R:1983年は2ポイント差でチャンピオンを獲られたわけですけど。
⎯⎯福井:最終戦はイモラだっけ? あのときは(マルコ・)ルッキネリがホンダで最後のレースだったけど、最後まで頑張って、役割を果たしてくれ、と。すると、ヤツもやってくれたけどね。序盤はケニー(・ロバーツ)を押さえて。そしてフレディ(・スペンサー)が逃げて、最後は狙いどおりに2位でフィニッシュしてチャンピオン決定、と。あれは凄い戦いだったよね。
⎯⎯R:仮にここで獲れなかったとしても、1984年は4気筒のNSRを出されたわけですよね?
⎯⎯福井:そう。あれは1983年のシーズン初めにはもうできてたんだよ。だから1983年シーズンを戦いながらも、日本では4気筒を開発してた。まぁ、3気筒で1983年に獲れてよかったけども、ダメだったら1984年は絶対獲らなけりゃならなかった。だから4気筒だったわけで、相当自信はあったんだよね。でも、結局ダメだったんだけど。原因もいまだにわからないけど、ダメだったんだね。
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上記インタビューの続きのほかに、いかにしてNS500というクルマができてきたのかを詳解した『レーサーズ』Vol.01『’83NS500』がこのほど重版出来。その記念として、また2009年の初版発行価格から定価変更のおわびもあって、当該号の表紙イラストをあしらったポストカードを付録しています。購入希望の方は、三栄オンラインストア(https://shop.san-ei-corp.co.jp/shop/g/g000717/)まで。