更新日: 2024.12.06 19:05
【RACERS重版出来記念】スズキの”油冷”誕生前夜。「コイツのレプリカを造れ!」すべては1983年型GS1000Rから始まった
1984年9月、ケルン・ショーで発表されたスズキGSX-R750は、世界中から大きな注目を集めた。当時、国産大排気量車ではまだ珍しかったフルカウルのスーパースポーツモデルで、これも750cc以上では先進的なアルミフレームを採用していた。どちらも名耐久レーサー、GS1000Rの、特に1983年型からフィードバックされたものであることは明白だった。
その並列4気筒DOHC4バルブエンジンは「油冷=オイルクールド」という聞き慣れない冷却システムだった。本来、エンジン各部の潤滑用に使うエンジンオイルを、冷却にも使うという画期的な方法だという。空冷は走行風で冷やし、水冷は水で冷やす。でも、油冷はオイルだ。
発想のヒントになったのは、第二次世界大戦中の傑作戦闘機ノースアメリカンP51に搭載されていたロールスロイス製マーリンエンジンだった。英語では「リキッドクールド=液冷」と記載されていて、スズキのエンジニアはその「リキッド」という言葉にピンときたらしい。
リキッドとは液体のことで、水だろうとその化合物だろうと、そしてオイルだろうと、リキッドになる。実際、マーリンエンジンは水にグリコールを20%ぐらい混ぜた、要するに不凍液を使っていたから、スズキの油冷と異なり、水冷なのだ。でも、言葉がヒントになり、スズキの油冷=SACS(スズキ・アドバンスド・クーリング・システム)は誕生した。
「最初、油冷と聞いたときは、『何だ?』と思ったよ。でも、エンジニアから説明を受け、エンジンを見ると納得した。これは正常進化だとね。2バルブのGS、4バルブのGSXとやってきて、ダメだったところを改良していった結果、ああいう設計になった。燃焼室裏を冷却すればイイに決まってる。GSXではここの発熱が酷かったから」
当時、4ストロークのスプリントレースでは実質的にスズキファクトリーであったヨシムラ。その2代目社長の吉村不二雄氏は、油冷との出会いを後にこう回想している。
ヨシムラとスズキの協力関係は1977年8月のAMAスーパーバイク第3戦ラグナセカでデビューウィンを果たしたGS750(944cc)からのもので、その市販モデルが発表される少し前にアメリカの雑誌記者がPOP吉村にそのエンジンの透視図を見せ、強い興味を抱いたPOPがスズキRGやGSの生みの親である横内悦夫氏(当時のスズキ二輪設計部部長)と会談したことがキッカケだった(契約ではなく、男と男の約束だったという)。
GSは750に続き1000も大成功を収めた。1978年にはGS1000がAMA開幕戦デイトナで勝ち、夏の第1回鈴鹿8時間でも優勝。この2つの勝利でヨシムラとスズキの伝説が決定付けられたといってもいい。
※中略
ところが、1982年から投入した期待の4バルブGSX(カタナ。ホモロゲーションモデルは1100㏄ではなくGSX1000S)は、AMAスーパーバイクでは1勝も挙げられず、耐久チームは信頼性への懸念から従来の2バルブGSを進化させて使うという事態になった。
「4バルブになって、とにかくエンジンが大きく(横幅も増大)重くなった。それに、パワーは出るけど、発熱や各部の強度不足からトラブルが多かったね。開発時間がなかった、ということもある」(吉村不二雄)
こうしたなか、AMAスーパーバイクは1983年から1000㏄から750ccとなり、世界のTT-F1も1984年から同じく750ccに。また、スズキは1983年をもってファクトリー活動の休止期間に入り、ますます4バルブGSXの改良は進まなかった。
そして1985年、油冷GSX-Rのデビューとともに活動は再開された。
「GSXで問題だったところ、例えばロッカーアームのレバー比(GSXはレバー比がきつく、カムなどもカジリやすかった)や、燃焼室裏の冷却といったところに、きちんとした改良がなされていた。それに何より、軽くてコンパクトに作ることが徹底されていた。決して奇をてらった設計じゃない。だから、信頼性もある。これなら最初からイケルと思ったよ」(吉村不二雄)

※中略
スズキの技術者たちは、水冷でなければダメだとは決めつけず、自分たちが積み重ねてきた経験と技術を生かし、アイデアを加えながら、シンプルに「軽量・コンパクト」を追求した。その結果、誕生したのが油冷GSX-Rだった。それはギミックや最新技術で飾ったものではなく、質実剛健な実戦型だったのである。
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