更新日: 2024.12.09 18:19
【RACERS重版出来記念】唯一無二の上下逆転レイアウトを持つ、1984年型ホンダNSR500誕生の真実。それはかつての”NR”の再来だった
NS500がいよいよタイトルを狙おうとしていたその頃、ホンダはすでに見切りをつけていた。
「3気筒ではやはり苦しい、4気筒にしなければ」
「しかし、ただ4気筒を積んだだけでいいはずがない……」
NR500のときにも似た技術者たちのロジカルな検討。その先にあったものは、まさに異形の4気筒搭載車だった。
19年にわたって世界GPを戦い、その頂点を制すること10回。1980年代半ばから2000年代初頭にかけて、モーターサイクルレースの盟主として君臨したホンダNSR500。だが、「NV0A」の開発コードが与えられた初代モデルは、燃料タンクと排気チャンバーが通常配置と逆転した特異な車体レイアウトを持ち、それが原因で成功を収められなかったかのように語られてきた。それも、現役当時から現在に至る四半世紀にもわたって、である。
3気筒マシンで敵の隙を突くのではなく、4気筒化して真っ向から勝負を挑んで勝つことを目的とした初代NSR500。この重要なモデルにおいて、なぜホンダはこうも特異な構成を採用したのか? ステアリングヘッドとスイングアームピボットを直線的に結んだフレームに1軸クランク90度V4エンジンという勝つための要素を選択しながら、なぜ燃料タンクをエンジン下に置くという大きな冒険をしたのだろうか?
技術的な話を別にしてまず言えるのは、NV0Aというマシンは、あのNR500に近いということだ。それは、開発者がエンジニアリングの理念に重きを置き、その具現化、つまり前例のないマシンを形あるものに仕上げるべく邁進した、という点においての話である。

※中略
車体エンジニアとしてNV0Aの開発の中心に立ち、その後、1993年型であるNV0Rまでの歴代NSR500のLPL(開発責任者)を務めた小森正道氏が、「福井(威夫)さんから、『ただ4気筒を積む、というだけじゃダメだ。何か特別なことを考えろ!』と、かなり強く指示されました」と振り返るように、常識的な構成のマシンでは済まされないムードが当時のHRC社内に漂っていたのは想像に難くない。
なお、後にホンダの社長を務めることになる福井氏は当時、会社化されて間もないHRCが手掛けるすべてのワークスマシン開発の総責任者という立場だった。
万一の備えにNS500をキープしていたスタッフに向かって「前進あるのみ。前年型なんか捨ててしまえ!」と檄を飛ばした福井氏の指示のもと、がむしゃらに突き進むしかなかった。そこには、新しい発想に対して寛容というよりも、もっと突き詰めた、革新的なものを造って当然、といった雰囲気さえ感じられた。
そして、上下逆転レイアウトについてインタビューの席で異口同音に語られたのは、「低重心化」という狙いだった。では、なぜそんなに低重心化が重要だったのかは、小森氏から「ウイリーおよびリヤホイールのスピニングの対策のためです」という明確な回答を得た。
1982年にホンダが投入した同社初の2ストロークGP500マシンNS500は、加速時にフロントが簡単に浮き上がり、それにホンダは相当悩まされた。3気筒でさえそうなのだから、一段と強力な4気筒を何の工夫もなく積めばどうなるかは明らか。その思いから先の福井氏の檄だったわけだが、それを受け止めた小森氏をはじめとする開発者たちの気持ちも同じだった。
いずれにせよ、エンジンの制御技術(出力特性の作り込み)が発達していなかった当時、加速時のフロントリフトを抑えるのは、車体設計の大きなテーマのひとつであり、ホンダに限らず「重心は低くて前寄りのほうがいい」というのが金科玉条のように認知されていたのである。
「当時はまだトラクションという概念が明確ではなく、とにかく4気筒化で増大したパワーを路面に伝えるためにも、重心を低くするのが効率的でした」というのも、開発者たちに共通した認識だった。

※中略
ただ、たったひとつの“異例”である逆転レイアウトのおかげで、開発と製作、メンテナンスとセッティング、そしてライディングと転戦には多大な労力を必要とした。この点でもまた、NSよりNRに近かったと言うことができる。
特に、排気チャンバーには難儀した。なにしろ、高出力化に伴って膨張室容量が大きくなったチャンバーが4本まとめて燃料タンクの形をしたカバーの中に収まっている。いや、隙間なく「埋め尽くされている」ので、その熱対策は相当だった。
ライダーの上体を熱から守るためだけでなく、キャブレターの吸気温度を下げ、リヤショックユニットの放射熱対策をし、さらには走行直後のマシンのメンテナンスやセッティングをするメカニックの火傷防止にも何らかの対策が必要だった。
加えて、エンジンの下に燃料タンクを置くことで、操縦安定性の問題とは別に、一端ガソリンを汲み上げてからキャブレターに向かって落とすシステムが必要になった。フルバンク/フルボトム時のロードクリアランスを稼ぎつつ、エンジン下に30リットル超の容量を確保するのも、かなりの難題であった。
これらのほかにも山積していた問題をクリアし、NSのフレームに4気筒エンジンを積んだ仕様を含めると4作目にしてようやく形になったフレームとエンジンが合体し、シャシーテスト・完成検査を経てデイトナに向けて発送されたのは1984年2月25日という、まさにギリギリのスケジュールだった。
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