更新日: 2024.12.11 12:32
【RACERS重版出来記念】かくして“TECH21”チームは走り出した。ヤマハ、1985年鈴鹿8耐本番前の舞台裏
「今度の8耐は平忠彦とケニー・ロバーツが組み、そのスポンサーには資生堂が付く」⎯⎯。
1985年の春先、こんな夢のような話が多くのバイクファンの間で語られていた。ニュースの発端は当時の『ライディングスポーツ』やモータースポーツの記事が豊富だった『週刊プレイボーイ』だ。
果たして、ずっとYZR500に乗ってきたふたりが8耐マシンでどれだけ走れるのか、またその8耐マシンの実力もその時点ではわからない。しかし、ファンにとって大いなる夏の楽しみになったことは事実だ。そんなメディアと読者が期待に胸を膨らませる一方、ヤマハ本社ではチーム発足のために東奔西走していたのである。
ここに一通の、何やら秘密めいた文書がある。カバーシートには『ケニー・ロバーツ 平忠彦 鈴鹿8時間耐久参戦 スポンサード企画のご案内』と、書かれている。その表題の下には、この文書が書かれた日、もしくはどこかに提出された日であろう日付があり、一番下にはこの文書の発信元と思われる会社名がふたつ、打たれている。ヤマハと、大手広告代理店の電通だ。
それにしても、『案内』が急だ。ケニー・ロバーツと平忠彦が組んだ8耐といえば、言わずと知れた1985年のこと。日付のとおり5月1日に発信されたとなると、8耐本番まで3カ月ない。それとも、これくらいのタイミングは普通なのか……。
ま、それは他人様の業界のことなので、不思議がってもしょうがない。謎なのは、スポンサー=協賛金のお願いをするこんな『ナマっぽい』文書が、どこから出てきたのか、だ。しかも、コピーのコピー、そのまたコピーだからであろう、タイプされた文字がヨレヨレで不鮮明。まるで『NHKスペシャル』に出てくる、○○公文書館の所蔵品といった雰囲気で、一層おどろおどろしさを誘う。
※中略
さて、そのケニーを走らせるために、本社営業部隊も奔走していた。その中心にいたのが、飯窪泰だ。今はヤマハOBだが、当時はMS普及課の課長を務め、ヤマハユーザーの会員組織“Y.E.S.S.”を立ち上げた人でもある。その飯窪が当時をこう述懐する。
「ヤマハが8耐に出るなら、それ相応のインパクトが必要だったんです。マシンは新開発のFZ750ベースで話題十分。ライダーも平君で申し分なし。問題はケニーだったんです。ケニーのファイティングマネー、500万円をどこから出すか」
「あの年の8耐に出るにあたり、私に与えられた最初のミッションは、まずこのお金を捻出することだったんです。上司からは、『お前が500万円を工面できなければ、ケニーの参戦はないんだからな』と脅かされましたよ」と、笑う。
その時点ではまだ資生堂のスポンサードは決まっていない。それどころか、資生堂はバイクやレースにはまったく興味がなかった。資生堂が惚れ込んでいたのは、いちアスリートとしての平の爽やかなキャラクターだけだ。
そんな資生堂に真正面から当たっていって、やはりレースにはスポンサードしないと言われてしまったら、ケニーを呼べない。さて、どうしたらいいのか。
そんな苦衷を救ってくれたのが、大手事務用品メーカー“PLUS”の今泉嘉久社長(当時。現在は会長)だった。それまで飯窪と今泉は面識がない。ふたりを引き合わせたのは、飯窪が営業職で広島に赴任していた頃に付き合いがあった広告代理店だった。
「今泉社長だったら、話を聞いてくれるかもしれない。ちょうど社長は会議のために広島に来ています」との情報を得た飯窪は、さっそく広島に飛んだ。そして、帰京直前の今泉を広島空港で捕まえたのである。
急だったために、まともな企画書など用意できなかった。しかも、悪いことに落ち着いて話せる場所がなく、出発ロビーでの立ち話となった。それでも今泉は、熱心に8耐を語る飯窪の話に耳を傾けてくれたという。500万円の協賛。今泉はその場で即断即決してくれた。
これでケニーを呼べる。ひと安心した飯窪の次なるミッションは、資生堂とのパートナーシップだ。資生堂に限らず、世間のバイクに対するイメージは決してよくない。それを覆すために、飯窪は何度も資生堂の人に会い、サーキットに呼び、レースの素晴らしさを説いた。ようやく理解してもらい、スポンサー契約が決まったのは、例の怪文書の日付に近い1985年5月のことだった。
ところが、飯窪の苦労話はこれで終わらない。
※中略
今度は資生堂が企画した8耐参戦の記者発表会に平が「行かない」という。
「平君はまじめな人でね。『僕はテストライダーであって、タレントじゃない』って言い張る。サーキットこそが仕事場で、スポットライトが照らされる場所はそぐわない、と思っていたんだね」
「でも、僕や資生堂にとっては発表会の会場に平君が来てもらわなくてはカタチにならない。シャケさん(河崎裕之)にも説得に加わってもらったんだけど、ハッキリとした返事をもらえないまま、当日を迎えてしまった」
「今みたいに携帯電話なんてないでしょ。平君が来るのか、来ないのか、もう居ても立ってもいられなかった。メディアの前で土下座することも覚悟した開始直前に、ようやく平君が来てくれた」
※中略
「『スポンサーだ』『お金だ』といつも言っていた僕は、平君からしてみたら『カネの亡者だ』と思えたかもしれないね。でも、僕は平君に言いたい。『ホンダと繰り広げたあのHY戦争に負けて疲弊していたヤマハを元気にしてくれたのは、あなたでした。ありがとう』と⎯⎯」。
そんなヤマハ人たちの悲喜こもごもを乗せて、1985年の鈴鹿8耐は幕開けした。
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上記「TECH21チーム発足の舞台裏」をかわきりに、5バルブエンジンを搭載したヤマハ4ストロークレーサーの歴史をたどる『レーサーズ』Vol.09『YAMAHA GENESIS』がこのほど重版出来。その記念として、また2011年の初版発行価格から定価変更のおわびもあって、当該号の表紙イラストをあしらったポストカードを付録しています。購入希望の方は、三栄オンラインストア(https://shop.san-ei-corp.co.jp/shop/g/g001214/)まで。