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MotoGP ニュース

投稿日: 2018.04.04 21:44
更新日: 2018.04.04 21:54

「英雄であり、仲間であり親友」高橋国光総監督、故ルイジ・タベリの葬儀に参列

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MotoGP | 「英雄であり、仲間であり親友」高橋国光総監督、故ルイジ・タベリの葬儀に参列

 2018年3月1日、ロードレース世界選手権の125ccクラスで1962年、64年、66年と三度のチャンピオンを獲得したスイス人ライダー、ルイジ・タベリさんが88歳で亡くなった。1961年にチームに加わって以降、ホンダの二輪ロードレースの活躍に大きく貢献した人物だが、同時期チームメイトだった、“国さん”ことTEAM KUNIMITSU高橋国光総監督が、スイスで行われた葬儀に参列した。ふたりの交流と思い出を、国さんに語ってもらった。(※文中、あえて親しみをこめて“国さん”、“タベリさん”と表記させていただくことをご了承いただきたい)

 スイス出身のタベリさんは、1954年に世界選手権にデビュー。MVアグスタやドゥカティといったイタリアメーカーのバイクで参戦を続けていたが、1961年にホンダに加わった。その後、125ccクラスで三度のチャンピオンを獲得したが、66年に引退している。

 一方、国さんは10代の頃から浅間火山レース等で活躍し、ホンダと契約。1960年にヨーロッパに渡り、世界選手権に参戦。61年にはホッケンハイムで行われた西ドイツGPで250ccクラス優勝を飾り、日本人として初めてロードレース世界選手権での勝利を収めている。

1961年、250ccのRC162で戦う国さん。後方はフィリスやMVのエルンスト・デグナー(デグナーカーブの由来となった)らが続く

■「どん底」で出会った親しみの存在

 そんな国さんは1960年、シュツットガルト近郊のソリチュード・サーキットで行われた西ドイツGPが「僕の初めての海外でのレースだった」という。ただ、初参戦から順風満帆だったかといえば、そうではなかった。

「日本にはロードレースなんてなかったからね。60年に初めて海外でレースをしたときは、それまで経験したことがないくらい、プライドを傷つけられた。レベルが全然違ったんだよね。日本人も活躍できると思っていたし自信もあったけど、それがなくなっちゃった。どん底で、自分自身が嫌いになるくらいだった」と国さんは当時を振り返ってくれた。

「とんでもない世界だった」という世界選手権のなかで、国さんは憧れだったトップクラスの外国人ライダーたちと、写真に収まる気にもならなかったという。それは、自分が同じレベルの世界にいないことから来る“引け目”もあったのかもしれない。

「そこに、ルイジ・タベリがいたんだよね。彼とは写真を撮った記憶があるんだ。それは彼の人間性や、親しみやすさがあったからだと思う」

 こうしてふたりの交流が始まった。60年のモンツァで「ちょっと感覚をつかんだんだよね」という国さんは、2年目となる1961年のシーズンに臨んだ。250cc、125ccに参戦するホンダ陣営は、ジム・レッドマン、トム・フィリス、マイク・ヘイルウッドなど、蒼々たるメンバー。ここにルイジ・タベリ、高橋国光というふたりが揃った。

1966年のタベリさん(中)


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