前半戦の折り返しとなる第9戦ドイツGPのMoto3クラス予選では、佐々木歩夢(Petronas Sprinta Racing)がグランプリ初ポールポジションを獲得。鳥羽海渡(Honda Team Asia)が2番手に続き、Moto3クラスとなってからは初めて日本人ライダーが予選ワン・ツーを獲得する活躍を見せた。
小排気量クラスでの日本人ライダーの予選ワン・ツーは、2001年の南アフリカGPの125ccクラスで宇井陽一がポールポジション、上田昇が予選2番手を獲得して以来となる。
1990年代から2000年代の序盤にかけて、世界グランプリの小排気量クラスでは日本人ライダーが大活躍を収めた。1994年と1998年には坂田和人が、1995年と1996年には青木治親が世界チャンピオンを獲得。日本人ライダーがポールポジションを獲得し、表彰台に登壇、優勝するというのが当たり前という時代があった。
1997年の125ccチャンピオン、バレンティーノ・ロッシも、そうした日本人ライダーたちとの競り合いから学び、速さを身に付けた。
日本人ライダー活躍の背景となったのが、当時の全日本ロードレース選手権125ccクラスのレベルが世界的に高かったこと。1991年の日本GPではワイルドカード参戦の上田がデビューウインを飾るなど、マシンやタイヤなどのハード面も全日本は世界をリードしていた。当時は全日本で開発したハードをそのまま世界グランプリに持ち込めたことも大きな武器だった。
しかし、2000年代に入って、小排気量クラスに参戦年令の上限制限が導入され、若手ライダーのためのクラスという位置づけになると、日本人ライダーの参戦自体が少なくなる。全日本のマシンレギュレーションがレースコストの削減をめざして世界グランプリとかい離し、マシンのレベルが下がったことも、日本GPでの日本人ワイルドカードライダーの活躍を厳しくした。
代わって台頭したのがスペイン人ライダーで、これは1990年代後半から未来のスペイン人ライダーを育成するためのプロジェクトがスタートしたことがそのひとつの理由だ。