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MotoGP ニュース

投稿日: 2020.06.19 17:52
更新日: 2020.06.19 19:24

ホンダ、最初の黄金時代(前編):1959年に初出場したマン島TT。事前に学ぶコースを間違えながらも団体優勝

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MotoGP | ホンダ、最初の黄金時代(前編):1959年に初出場したマン島TT。事前に学ぶコースを間違えながらも団体優勝

 1959年のマン島TTレースにエントリーしたホンダ。初参戦ながら好成績を上げ見事な団体優勝を果たした。1960には外国人ライダーを擁し、1961年にはグランプリ初優勝、その後も快進撃を続け多くのタイトルを獲得した。イギリス人ライターのマット・オクスリーがホンダの最初の黄金時代について語る。

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 ホンダと同じようにバイクのグランプリにエントリーしてきたマニュファクチャラーは他にはいないだろう。

 1959年6月、ホンダは初めて世界選手権レースに参戦した。それはマン島TTレースのウルトラ・ライトウェイトクラスだった。1960年、ホンダは初めて世界選手権にフルシーズン参戦し、初の表彰台を獲得した。1961年、ホンダは初のグランプリ優勝を飾り、125ccクラスと250ccクラスで世界タイトルを獲得した。1967年の終わりまでに、ホンダは138回のグランプリ優勝を果たし、50cc、125cc、250cc、350cc、500ccクラスの全5カテゴリーにおいて、ライダーズおよびコンストラクターズ選手権タイトルを計34回獲得した。

 この比類のない功績はひとりの男に端を発する。その人物は1948年に本田技研工業を創業した、本田宗一郎氏だ。

 本田氏にはビジョンがあった。日本製のバイクがヨーロッパで知られてもいなかった時代に、本田氏はヨーロッパのレースを制して、ホンダを国際的な勢力にしなければならないことを認識していた。そして彼は、無為に時間を過ごすような気分ではまったくなかった。

 1954年の春、会社を創業して6年に満たない頃、本田氏は以下ような発表を行なった。

「私の子供の頃の夢は、自分で作ったマシンでモータースポーツの世界チャンピオンになることだった」

「私はマン島TTレースに参戦することを決めた。この目標は難しいものだが、我々は日本の産業技術の実行可能性をテストし、またそれを世界に示すためにも達成しなければならない。私はマン島TTレースに参戦し、仲間の従業員とともに私のすべてのエネルギーと創造力を勝利のために注ぎ込むことをここに宣言する」

 1954年の夏、本田氏は当時世界で最大のバイクレースイベントであったマン島TTに赴いた。本田氏の狙いはライバル候補たちのマシンを調査することにあった。そして本田氏は大きな衝撃を受けたという。

「バイクは我々が想像していたよりはるかにパワーがあったことに驚かされた」と本田氏は語っている。

 本田氏は日本に戻ると、マン島TTで競うのに十分な速さのあるバイクの開発を始めた。そうして5年後、本田氏はライダーとエンジニアの少人数のチームをマン島に送り出したのだ。1959年6月3日、ホンダは初出場の世界選手権レースで、団体優勝を果たした。

 マン島TTがホンダにとって初めてのロードレースだったことを考慮すれば、それは並外れたパフォーマンスだった。なぜなら当時の日本でのレースはほとんどダートコースで行われていたからだ。実際、チームはマン島に到着したが、アスファルトではなくダート向けの装備だったホンダの125ccのRC142に調整を加えなければならなかった。

 それだけでなく、ホンダのライダーたちはそれまでの数カ月間、ビデオとガイドブックで全長37.75マイル(約60.75km)のマウンテンコースについて学んでいた。125ccのウルトラ・ライトウェイトレースが、違うサーキットであるクリプスコースで行われることを彼らが知ったのは、島に到着してからだった!


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