レースで誰が勝ったか負けたかは瞬時に分かるこのご時世。でもレースの裏舞台、とりわけ技術的なことは機密性が高く、なかなか伝わってこない……。そんな二輪レースのウラ話やよもやま話を元ヤマハの『キタさん』こと北川成人さんが紹介します。なお、連載は不定期。あしからずご容赦ください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1987年は遠州弁でいうところの、とても「えらい」年であった。「えらい」とは大変だとか、つらい・苦しいという意味だが、筆者にとってはまさしくそのとおりだった。結果自体はファクトリー参戦四年目、TECH21チーム発足三年目にして初めての優勝となり、またレース終了間際のケビン・マギー選手の超人的な追い上げに屈したライバルの転倒による逆転勝利というドラマチックな展開だった。
ゴール後のピットレーンになだれ込む観客が狂気乱舞する姿を他人事のように眺めながら、ふと気が付くと涙が込み上げてくる自分がいた。それは歓喜の涙ではなく、一年間のつらく苦しい開発業務からやっと解放されたという安堵感から不覚にも涙腺が緩んでしまったのだ。
そのつらく苦しい一年は「来年のマシンは片持ちリヤアームで」という、もはや抗いがたい職場全体の空気感の高まりで始まった。
前年、つまり1986年の直接の敗因は片持ちリヤアームの有無ではなかったにせよ、その圧倒的なタイヤ交換の早さ(編集部注:ホンダRVFのこと)を見せつけられると、それなくしては勝負にならないと誰しもが思ったのは事実。特許の問題は当然懸念事項だったが、片持ち式のリヤアーム自体は公知例がないわけではなかったし、周辺特許が出願されていたとしても調べる術がなかったので検討を始めることにした。
とはいえ資料といえば写真のみなので、何をどうしたものやら皆目見当がつかなかった。どうせやるならヤマハ(=自分)なりのオリジナリティを出したいと思ったが、どの部分をとってみても変える必然性が見出だせない。ならばいっそのこと遠回りせずに(見た目には)フルコピーに近い形で作ろうと肚をくくった。そうでもしないことには、短期間で機能するシステムを作り込むのは無理だと判断したわけだ。
フルコピーに近いといっても専用フレームを設計する時間も予算もないので、全日本のTT-F1クラスに参戦するスプリントマシン用のフレームを共用するという制約条件だけ課すことにした。