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2017.11.11

【崖っぷち折原コラム】退路を断って追い込まれた21歳、笹原右京の運命の日


『笹原右京』

 彼の名前を耳にしたのは、もう8年も前になるだろうか。彼がカートで走っている頃の話だ。片山右京選手のファンだった彼の父が、片山選手の名前をもらって名付けたことや、僕が片山選手の写真を専属で撮っていた経緯もあって、『笹原右京』は妙に気なる選手のひとりだった。

 その後、笹原右京はヨーロッパに渡り、カートでチャンピオンとなり、フォーミュラ・ルノー2.0にチャレンジしていることまでは噂に聞いていた。だがその後、噂を耳にすることが少なくなり、消えてしまったのだろうかと想像していた。

 ところが昨年の夏、二輪の鈴鹿8時間耐久レースのテストの撮影に行った時に、鈴鹿で再会することになる。聞けばSRS-F(鈴鹿サーキット・レーシングスクール・フォーミュラ)のオーディションに来ていると言う。彼の実績から考えれば、講師でもおかしくないのに。その疑問をぶつけると、「もう、レースを続けるにはこれしか道がないんです」。キッパリとそう言い切った。その時はどんな事情があったのか知らなかったので、そうなのか、モッタイナイな、くらいにしか思わなかった。

 そして今年、スーパーGTの開幕戦の岡山で、再び彼と再会する。今度はSRS-Fでスカラシップを獲得して、FIA-F4のドライバーとして現われた。カートでワールドチャンピオンになり、ヨーロッパのミドルフォーミュラで戦ってきた笹原右京。彼にとって入門カテゴリーであるFIA-F4は、楽に勝てるものだと勝手に思っていた。

 事実、その岡山の2戦を笹原右京は優勝と2位で走りきった。当然の結果だと思っていたが、本人は「とんでもないです。必死ですよ」と語っていた。もちろん、楽に勝てるレースなんてありはしないのだが、少なくとも多少の余裕があるものと思っていた。ヨーロッパで揉まれてきたドライバーに、入門カテゴリーが必死と言われてもその時はピンとこなかったが、その後、5月のオートポリスで再会した時に彼が言う、必死の意味を知ることになった。

 それまでも、笹原はしっかりとトレーニングを重ねてきたことが見て取れる肉体をしていた。だけど彼はそこからさらに減量をしてきたのだ。それもひと目見てわかるくらいに、余計な肉がそぎ落とされている。

ヨーロッパでの実績を捨てて、SRS-Fに飛び込んだ笹原右京