3月24日、鈴鹿サーキットで開催されたTOYOTA GAZOO Racing 86/BRZ Race第1戦。プロクラスの決勝レースでは、嬉しい初優勝を飾った松本武士(T和歌山OGAWA86 DL)、チャンピオン経験者で松本と激しいバトルを展開した近藤翼(神奈川トヨタ☆DTEC86R)、そしてふたりを追った堤優威(ADVICSカバナBS 86)と、3人の若手による優勝争いが展開されたが、その後方で新たな手ごたえを得つつ、バトルを見守っていたドライバーがいた。三度のスーパーGTチャンピオン、脇阪寿一(Owltech 86)だ。
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晴天に恵まれた鈴鹿で展開された白熱の決勝レースからさかのぼること2日。鈴鹿で、筆者は寿一にこんな声をかけられた。
「取材して。取材」
ニコニコ生放送等で付き合いはあるが、なかなか脇阪寿一という男から「取材しろ」と言われることはなかった。思えばこの仕事を始めてすぐの頃、すでに“ミスタースーパーGT”の異名をとっていた寿一に取材を申し込んだことがあったが、かなりの困難だったことを思い出す。決して寿一が取材嫌いというわけではない。以前からどんな取材者にも、取り上げてもらえることへの感謝を丁寧に述べる人物だった。ただ、当時はあまりに時間がなかったのだ。
この鈴鹿の週末も、寿一はTGR 86/BRZ Raceのレースに加え、GRスープラのデモラン、ピレリスーパー耐久シリーズの場内解説と多忙を極めていた。そこで後日取材にさせてもらったが、なぜ今さら、SNS等で大きな影響力をもつ脇阪寿一ほどの人物が取材を要求するのか、そしてこの週末、常に上位を争った“理由”を教えてもらった。
■「止めようかとも思った」苦戦が続いた寿一の挑戦
寿一は2015年限りでスーパーGTのシートを下り、LEXUS TEAM LeMans WAKO’Sの監督に就任。また、TOYOTA GAZOO Racingのアンバサダーという役割を担った。一方でレーシングドライバーとしても活動を続け、スーパー耐久へのスポット参戦、そしてTGR 86/BRZ Raceのプロフェッショナルクラスに挑んだ。
TGR 86/BRZ Raceのプロクラスは、寿一もスーパーGTで戦ってきたプロドライバーを中心に、若手やベテランなど、多くの“手練”が参戦する。ナンバー付きのトヨタ86、スバルBRZで戦うだけにパワーはそこまでないが、それ故の難しさがある。そんななかで、寿一は参戦以降なかなか上位に進出することができなかった。
昨年まで寿一はディーラーと組み、人材を育てながらレースを戦っていたが、そこに限界を感じつつあった。何より、レーシングドライバー脇阪寿一として、「今まで僕の人生で、ビリを走ることは許されなかった。どんなカテゴリーでもそんなことはなかった」というプライドがあった。そしてまた、寿一はTGRアンバサダーとしても、最後尾を走る訳にはいかなかった。
「やっぱり、僕は物事を伝えたい」と寿一は言う。
「伝えたい人間がビリを走っていたら、伝えられないんだ。伝えるためにはトップを走らなければいけないし、少なくともその周辺を走らなければいけない」
2019年に向け、寿一はこのシリーズへの参戦を一度は止めようかと考えたこともあったという。しかし、このレースは「スーパーGTではできない、マーケットに直接繋がる商品開発ができる」場所。フォーミュラから育ってきた寿一は、将来のためにチューニングカー出身のドライバーができるこの開発を学びたかった。
「販売店がやっているレースでもあるし、トヨタがやっているレースでもあるし、それに86を使うし、すべての意味であのレースは大切なんです。今まで僕がやってきたレースとはまったく違う種類のもの」と寿一はTGR 86/BRZ Race参戦の意義を問う。
「だから、今年初めてのことになるけれど、自分のお金を出してでもやろうと思った。自分はいま、プロモーションやイベント制作、いろんなことをやっている。監督もそう。でも、チーム運営というのはしたことがない。時間がないし、リスクもある。それをやり出すと、他のことができなくなる。でもそこには縁がまだなかったので、やりたいと思った」
こうして寿一は、初めて自らのチームを立ち上げることを決意した。いや、初めてというのは正確ではないかもしれない。レーシングカート時代、弟の脇阪薫一と、現在奈良でアルファロメオやレーシングカートのショップを営んでいるスフィーダの西嶋和彦代表と立ち上げたチーム『ASSO MOTOR SPORTS』を復活させることにしたのだ。
「いろいろなことがあって考えたときに、やっぱり横には信頼できる人、ものすごく細かい言葉で話し合えるスタッフが欲しかった」