日本のF1ファンにとって一大イベントである日本GPが、もうすぐ開催される。しかしその直前、ショッキングな事件が起きた。2015年からパートナーを組んできたマクラーレンとホンダが、今年いっぱいで提携解消することを正式に発表したのだ。すでに何カ月も前から観測記事として報じられていただけに、突然でビックリしたという人はそう多くないと思う。とはいえ衝撃のニュースであることに変わりはない。
1980~90年代に圧倒的な強さを誇ったマクラーレン・ホンダ。これまでのF1日本GPを振り返れば、1987年の鈴鹿サーキットでのF1初開催以来、鈴鹿サーキットのF1はホンダと歩みをともにして今年、30年目を迎える。ここで簡単にこれまでの鈴鹿サーキットでのF1日本GPのハイライトを、ホンダの活躍を中心に振り返ってみよう。
1987年:鈴鹿で初のF1日本GP開催。ウイリアムズ・ホンダのネルソン・ピケが3度目となるワールドチャンピオンを決定。この年、ロータス・ホンダからF1デビューを果たした中嶋悟が1コーナーをアウト側からオーバーテイクするパフォーマンスで6位入賞。
1988年:アラン・プロストとアイルトン・セナのコンビでマクラーレン・ホンダがシーズンを席巻。PPはセナが獲得し、レースでもスタートの失敗から大逆転で優勝。最終的にこの年のマクラーレン・ホンダは16戦15勝という伝説的なシーズンとなる。
1989年:トップを争うマクラーレン・ホンダのセナとプロストが47周目のシケインで接触し、セナがトップでチェッカーを受けるも、シケイン不通過で失格。遺恨の残るレースに。
1990年:タイトルを争っていたセナとプロストがスタート直後の1コーナーで接触して、両者リタイア。セナの2度目のF1ワールドチャンピオンが鈴鹿サーキットで決定。また、鈴木亜久里がランボルギーニV12エンジンを搭載したラルースで日本人初の3位表彰台を獲得した。
1991年:マクラーレン・ホンダのセナと、ウイリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセルのタイトル争いが鈴鹿サーキットで行われ、マンセルはリタイヤとなり、セナの3度目のチャンピオンが決定。また、この年限りで引退を表明していた中嶋悟はマシンのトラブルのため、レース途中でリタイアとなった。ホンダの第2期F1活動は翌92年で一旦終了するが、無限ブランドで2000年までエンジン供給が続いた。
2002年:佐藤琢磨がF1レギュラードライバーとなり、ジョーダン・ホンダからデビュー。鈴鹿サーキットでの日本GPは予選で佐藤琢磨が7番手に入る健闘を見せ、決勝でも自身F1初入賞となる5位フィニッシュ。鈴鹿は大歓声で琢磨を祝福し、優勝したフェラーリのミハエル・シューマッハーに「今回の主役は琢磨」と言わしめた。