GP Car Story最新刊Vol.24『ベネトンB194』の発売を記念して、同車のデザイナーであるロリー・バーンが、過去にGP Car Storyで語った自身のマシン開発秘話を特別公開!
第一弾は、Vol.20で特集した『フェラーリF1-2000』。フェラーリ移籍後初のダブルタイトル獲得車は、ベネトン時代から続く“バーン・エアロ”の集大成といえた。
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「感慨深かったよ。(2000年に)チャンピオンになれると信じていたが、本当にダブルタイトルを獲得できたなんて! もちろん、前年のマシン、F399でコンストラクターズタイトルを獲れていたけど、やっぱりドライバーズタイトルは格別なんだ」
ロリー・バーンはタイ・プーケットの自宅でソファーに深々と座りながら、遠くを見つめるように過去の思い出を掘り起こしていた。
「特に、あの時のマラネロは、私の生涯でもいまだに出会ったことのないほど、異様な興奮に包まれていたんだ」
想像もつかないような歓喜が、21年ぶりにマラネロを覆い尽くしたようだ。
「私はその時、自分でフェラーリのロードカーを運転していたのだが、マラネロまで来ると町中を人々が埋め尽くしていた。イタリアはもちろん、世界中からティフォシが集結していたんだ。その日は妻との食事の帰りだったが、あまりの人の多さに動けずに停まると、突然巨大なフェラーリの旗が私のクルマを覆ってしまった。モンツァのグランドスタンドで広げられる、あの赤い旗だ」
フェラーリのF1チャンピオンマシンの生みの親であるロリー・バーンの姿を見れば、ティフォシが放っておくはずがない。
「そこで私は動けない時にイタリアでやる最後の手段、思い切り空吹かしをしたんだ。私は動きたいのだ、とアピールしたわけさ。ティフォシとのコミュニケーションはこれに限るよ(笑)」
レースの翌日にはオフィスへ向かったのだが、状況は同じ。信号で停まると私のクルマの前にひざまづく人たちがいて、代わる代わるフェラーリのエンブレムにキスをしていくんだ! 信じられるかい? 結局、最後は警官のエスコートでオフィスへ向かったよ。後にも先にもあんな経験はしたことがない。マラネロの盛り上がり、ティフォシの歓喜、この夢のような出来事に私が関われたことを今でも誇りに思っている」
■わずか6週間の引退
天才デザイナーとして、トールマン、ベネトンなどで才能を発揮したロリー・バーンは1996年にF1の舞台から去り、タイの離れ小島に身を置いていた。
「コランタという小さな島さ。海辺の小屋を借りていたが、ベッドと蚊帳しかないシンプルな建物で、携帯電話はなく通常の電話ラインもきていなかった。通信はその民宿の無線だけだったんだ」
飛ぶ鳥を落とす勢いで94年、95年とベネトンをワールドチャンピオンに導いたカリスマデザイナーが、96年にはF1からの引退を決意し、小さなスキューバダイビングのビジネスを立ち上げるべく模索していたという。なぜ、彼はベネトンを辞めたのだろうか。
「94、95年とF1グランプリは波乱の時だった。ローランド・ラッツェンバーガー、アイルトン・セナを続けて亡くし、F1界はパニックに陥っていた。失格、出場停止、ペナルティ……どれも根拠のないヒステリックな非難で、意図された動きに嫌気が差したのさ。マシンやドライバー、レースそのものへの評価を忘れ、誰もが政治的にしか物事を考えようとはしなかった」
ベネトンとロリーの契約最終日である96年12月31日、ベネトンのファクトリーを最後に出たのはロリー自身だったと明かす。トールマンからベネトン、そして2度のワールドチャンピオンを思い出に、彼自身でこの時代に終止符を打ったのだ。
その後、タイへ身を移していたロリーだが、なぜフェラーリに加入しようと考えたのか。
「ある日、民宿のおばさんが私に電話が入っていると言うんだ。もちろん、無線機での連絡だよ。そもそも、私がこの島にいること自体を知っている人がごく限られていたのだから、不思議に思った」
絶海の孤島ではないにしても、タイの離れ小島に突然の無線の電話、それもロリーを名指しで……。
「それがジャン(・トッド)だったんだ。彼は私に、フェラーリのチーフデザイナーの仕事をオファーしてきた。その時、私はいったん『考えてみる』と返事をしたけど、10日後にはマラネロにいたよ。やはり憧れのフェラーリでの仕事を断ることはできなかった」
そして、ロリーは新時代のスタートをマラネロで切った。97年2月10日、わずか6週間の引退を挟んで。