日本が空前のF1ブームだった1990年代初頭。中嶋悟や片山右京らが所属したこともあり、ティレルは国内でも有数の人気チームだった。オーナーであるケン・ティレルが、テレビCMに起用されるほどだったのだから、このチームが愛されていたのかがうかがいしれる。
日本人にとって身近にあったティレル・チーム。その起源を紐解けば、70年代に富士で行なわれた日本GPに、“6輪車”として残したインパクトの大きさは無視できない。あの時から日本人にとって“アンクル”ケンのチームは、特別な存在だったのかもしれない。
ケン・ティレルがこの世を去り17年の月日が流れた。
現在発売中のGP Car Story Vol.26『Tyrrell P34』のなかで、彼の貴重な声を掲載している。そのなかで彼はP34はもちろんのこと、自ら立ち上げたチームについても興味深い発言をしている。
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「そもそもコンストラクターなんて、やりたくなかったんだ」
1993年、鈴鹿。ティレル・レーシング・オーガニゼーションの創設者兼チーム代表のケン・ティレルに、彼のチームの歴史を尋ねるインタビューをした。冒頭の言葉はその際に出たものだ。この発言には大いに驚かされた。
70年代初頭に独自のマシンでF1を席巻し、76~77年には6輪車のP34で世界を驚かせ、このインタビューをした頃にはハイノーズの先駆者としてF1の技術革新を決定的にしたチームだったからだ。私はその真意をもう少し聞いてみることにした。
「戦闘力のあるシャシーとエンジンが買えて、それで戦えばよかったんだ。今では“コンストラクター”なんて言われて、チームは独自のマシンを製作するルールになっているが、そんなものには反対だった」と、ケン御大は81年に制定されたF1のコンストラクター規定に一貫して反対だったと語った。
「実際、F1に進出した時もマトラからシャシーを買っていた。彼らが良いシャシーを作っていたのはF2に参戦していた頃から知っていたからね。だからマトラのシャシーにフォード・コスワースDFVを搭載しようと思ったんだ」
フォードを説得しDFVを入手
ティレル・レーシングは1958年に創設されたF3に参戦。ステップアップしたF2ではBRMのマシンを走らせた後、マトラのシャシーを使っていた。その流れからF1でもマトラと組み、エントリー名も本家のマトラとは別の『マトラ・インターナショナル』を名乗っていた。
「当時、フォードはDFVの供給にはきわめて消極的だった。ロータスの(コリン)チャンプマンが独占供給のはずだと反対していたからね。マトラのV12では勝てないと思っていたし、どうしてもDFVが欲しかった。だから懸命にフォードを説得してようやく手に入れた」
「これが契機となって、DFVはロータス独占から多くのチームに広く供給されるようになったんだ。これに関してはF1界全体が私に感謝してもいいと思うよ(笑)」
戦闘力のあるシャシーとエンジンを購入したことと、ジャッキー・スチュワートの6勝を挙げる活躍で、ケン・ティレル率いるマトラ・インターナショナルは、F1進出4年目、フル参戦2シーズン目でドライバーズタイトルを獲得。コンストラクターとしてはエントリーしていなかったので、コンストラクターズ選手権は対象外だったが、ドライバーズチャンピオンが優先され絶対的な価値を見出していた当時のF1ではこの結果で十分だった。
「このままこの関係が続いてくれたらと思っていたんだ。だが、マトラは彼らのエンジン使用もシャシー供給の条件としてきたんだ」
同じシャシーに独自のV12を搭載した本家としては、DFVを搭載の分家に負けたのはとても不都合だったに違いない。
「私はマトラのV12は使いたくなかったので、マトラのシャシーを諦めざるを得なかった。そして、チーム名をティレルとしてマーチ(701)を買った。だが、戦闘力は十分ではなかった。それで自分でマシンを作るようにしたんだが、それは本意じゃなかったんだ」