2018年のF1で日本のファンにとって残念だったのが、キミ・ライコネンのフェラーリ離脱(その後ザウバー移籍)や、フェルナンド・アロンソのF1離脱という、人気を誇るふたりのドライバーのニュース。
F1シーズンオフ企画である座談会の第3弾では、オートスポーツwebでもお馴染みのF1ジャーナリストの柴田久仁夫氏と、全レースの現場取材を16年以上続けている尾張正博氏のおふたりが、ライコネンのザウバー移籍の裏側や、アロンソがF1を離れる理由などを解説する。世界中で絶大な人気を誇る両ドライバーの秘話は、F1ファン必見!
■ライコネンが“宣告”を受けたのはイタリアGPの前だった!
──(MC:オートスポーツweb)まずはライコネンの移籍についてお伺いしようと思います。単刀直入に、ライコネンがザウバーへの移籍を決めた理由は何だったのでしょうか? WRCに再挑戦するのかなと思われましたが、極論すると勝てなくてもF1に残りたかったということなんですよね……。
尾張正博(以下、尾張)「彼がフェラーリを放出された時点で残っていたシートは、ザウバーしかなかった」
柴田久仁夫(以下、柴田)「というか、まだF1で走りたいと思ったのがすごいなと思った」
尾張「想像できなかったですか? 最初にフェラーリを放出された時にラリーをやったけれど(2009~2011年までWRCに参戦)、やっぱり彼はサーキットでのレースが好きなんでしょう?」
柴田「ライコネンって、あっさりしている人間というイメージがあったからF1へのこだわりもそんなに強くないと思っていた。そもそもフィンランド人てみんなあっさりしている。ミカ・ハッキネンはあれほどの才能がありながら、タイトルを2回獲ってさっさと引退してしまった。普通だったらあり得ないよ。ハッキネンの実力だったら5冠くらいは獲れる可能性はあったと思うんだけど……なんかみんなあっさりしているよね」
尾張「あっさりというか、精神的に繊細なんだと僕は思う。ハッキネンも2001年には九死に一生を得たような事故(開幕戦で2番手を走行中に、右フロントタイヤのサスペンションアームが折れてタイヤバリアに激しくクラッシュ)に遭ったし、いろいろなことを考えたのだと思う」
──ニコ・ロズベルグは2016年にタイトルを獲得した直後に引退しました。彼の場合は母親がドイツ人で、父親のケケ・ロズベルグがフィンランド人ですが……。
柴田「メンタリティ的には、半分くらいフィンランドが入っているでしょう」
尾張「引退発表の時のツイッターを見ても、子供ができたなんだってものすごく繊細で、『ああ、俺たちと同じなのか』という庶民的な感じだった。ワールドチャンピオンになるには生活のほぼ100%を捧げなければいけないので、家族と離れていることに苦しんでいるというのは、あっさりというか繊細。(バルテリ)ボッタスもそれに近い。でも、ライコネンはそれには当てはまらなくて、むしろミカ・サロのキャラクターに近い。『自分のやりたいことをやる』という感じかな。だけどもしセルジオ・マルキオンネ(フェラーリ前会長)が亡くなっていなければ、ライコネンは引退していたかもしれない」
柴田「マルキオンネが、ライコネンのザウバー移籍を許すことはないだろうね」
尾張「マルキオンネが亡くなった後、フェラーリ内部では『残留派』と『放出派』で分かれていたけれど、ライコネンは2019年も乗る気満々だった。だから彼は、イタリアGPの週に2019年に向けての契約更新をしないと言われてびっくりしていた。それから今後どうするのかという話になった時に、フェラーリ側は『進路のことがあるから、自由にしていい』と伝えた。何せ彼はまだF1に乗る気満々だったし、そして火がついたライコネンはイタリアGPで速かったよね」
──予選ではポールポジションを獲得し、決勝では惜しくも2位でしたが、速さをみせましたよね。
尾張「チーム内の掟では『接触しなければレースをしていい』となっているから、セバスチャン・ベッテルも何も言えない。日曜日のレース後の会見では、『何か取り決めはなかったのか?』『チームオーダーはなかったのか?』と何度も訊かれていたけれど、ライコネンもベッテルも『それはなかった』と」
柴田「ライコネンへの申し渡しをイタリアGPの後にやっていたら、ベッテルはあそこ(オープニングラップの第2シケイン)で接触していなかっただろうね」
尾張「あのふたりは、木曜日には普通に接していた。だけど土曜日の予選ではベッテルがライコネンのスリップストリームを使わせてもらえず、無線で『Talk you later.(後で話そう)』と言っていたよね。みんな何があったのかと訊いたけれど、ベッテルは答えなかった。だけどあの辺りから何かあったんでしょう。日曜日にも、なぜドライバー間の取り決めをしなかったのかと訊かれていたけど、ベッテルはうやむやにしていた。フェラーリはフロントロウだったし、地元だから勝たなければいけなかったのに。モンツァでの1勝は、3勝ぶんくらいの価値があったはずでしょう」