毎号1台のF1マシンにフィーチャーし、マシンが織りなすさまざまなエピソードとストーリーを紹介する『GP Car Story』のVol.28が6月24日より発売されている。今回取り上げるのは、ウォルター・ウルフ・レーシングが1977年に投入したウルフWR1・フォードだ。このページでは、ウルフWR1を駆りチームにデビューウインをもたらしたジョディー・シェクターのインタビューを特別にすべて公開する。
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今から10年前の2009年、ブラウンGPがF1の歴史上で3例目となる“新興チーム”デビュー戦優勝を果たした。実に32年ぶりの出来事だった。
ブラウンGPの代表だったロス・ブラウンが、その32年前の出来事にも関わっていた話を明確に理解している人はそう多くないだろう。それもそのはず、まだ彼はこの世界の扉を叩いたばかりの海の物とも山の物ともつかない若者にすぎなかったのだから……。
そんなブラウン青年が初めてF1と関わりを持ったチーム『ウォルター・ウルフ・レーシング』。今回のGP Car Storyは、活動期間わずか3シーズンながらも、F1界に大きなインパクトをもたらした“カナダ石油王”ウォルター・ウルフの夢をお届けする。
『WR1』とともにウルフにデビューウインをもたらしたジョディ・シェクター。のちのワールドチャンピオンとなる男だが、まだこの当時は頭角を現し始めた粋のいい若手のひとり。そんな彼が名門ティレルから新興ウルフへの移籍を決断した真相はなんだったのか。彼が目にしたウルフ・チームとは……。
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■ウルフ加入のいきさつ
——どうしてティレルを離れようと決めたのですか? 1976年のウルフ ウイリアムズの成績は、かなりひどいものでしたが……。
ジョディ・シェクター(以下JS):ティレルでのいい時期は終わったと感じ、もうあそこにはいたくないと思っていた。2018年のダニエル・リカルドの状況に、少し似ているのかもしれない。彼はどこか別のところへ行きたいという気持ちを抑えられなくなった。
JS:当時の私もそう感じていた。そこへウォルター・ウルフが現れて、彼のチームでドライブしないかと誘われたんだ。そして、私は「オーケー。あれとこれを約束してくれたら契約するよ」と答えた。
——何を要求したのですか?
JS:サラリーとチームメンバーの話だ。まず、フランク・ウイリアムズの代わりに、ピーター・ウォーを招くことを要求した。つまり、フランクは私がクビにしたんだ。ティレルで私の担当メカニックだったロイ・トップも連れていった。
JS:私としては、滅多にないチャンスだと思っていた。世間はそうは思わなかったようだけどね。ジェームス・ハントにも、「最初のレースで勝てたのはいいことだ。だが、あれは偶然の出来事で、この先もう二度とないだろう」と言われたよ。
——なぜウォーを呼びたかったのですか? それまで一緒に仕事をしたことはなかったと思いますが。
JS:ああ。だが彼はロータスで、何度か選手権タイトルの獲得に貢献していた。選手権を勝ち取ったチームのマネージャーなら、きっと優秀に違いないと思ったんだ。それ以上の洞察とか、深い考えがったわけではないよ
——ハーベイ・ポスルズウエイト(WR1の設計者)については、どうですか?
JS:ハーベイとは仲が良かったし、互いのことを理解し合っていた。ただ、歴史を振り返ってみると、実際には、彼が抜群に速いクルマを作ったことは一度もなかった……。WR1は出来のいいクルマだったが、それ以上のものではないと思う。あのクルマの多くの部分はパトリック・ヘッドの設計で、すっきりとシンプルにまとまっていた。
JS:パトリックによると、ハーベイは細部の設計については部下に任せきりで、図面はほとんど描かなかったらしい。パトリックとも仲は良かったよ。彼と私とで南アフリカへ行き、とても充実したテストをしたこともあった。
JS:その後、確かブランズハッチのレース・オブ・チャンピオンズの時に、パトリックから「チームを離れて、フランクと一緒にやるつもりだ」と聞かされた。私は「彼は救いようのないダメ人間だ。うまく行くとは思えない」と言ったのだが、2年ほど経って、彼らはすごい勢いで勝ち始めた……。
——ウォルターの強烈な個性について、どう感じていましたか?
JS:当時の印象を正直に言えば、“こいつはとんでもない大ボラ吹きだ”と思っていた。ただ、彼は口にしたことの4分の3くらいまでは、実際にやってみせた。その点、言うだけで何もしない普通のホラ吹きよりはマシだった。
JS:ともあれ、私はそう思っていたよ。彼は常識外れなことが好きで、ランボルギーニを乗り回していた。ある種のショーマンだったんだ。まあ、それは別に構わないし、とてもまともには付き合えない人間というわけでもなかった。