1999年、ジョーダン・グランプリがF1世界選手権でドライバーズ、コンストラクターズともに3位を獲得できたことに、無限ホンダの存在が大きなウエイトを占めていることは誰にでも容易に想像がつく。
ホンダが第三期F1活動を始めるその前年の出来事だけに、当時は参戦準備を始めたホンダが無限を通じて“実戦テスト”しているように見られていた。しかし、実際にそれがどうだったのかはホンダからも、もちろん無限からも公に語られることはなかった。
GP Car Storyでジョーダン199を特集するにあたり、やはり一番の気がかりはそこだった。あのとき、無限とホンダは何をしていたのか。それを確かめるためにふたりの人物にインタビューを試みた。
ひとりは無限ホンダF1プロジェクトの顔ともいうべき坂井典次氏、もうひとりは当時ホンダ社員として無限ホンダF1エンジンの設計に携わり、現M-TEC社長の橋本朋幸氏だ。
今回、本誌の企画として両名にインタビューした大串信氏に、“取材を終えて”というテーマでコラムを執筆してもらった。『無限ホンダF1プロジェクト』とはいったいなんだったのか、大串氏が取材を通じて感じ取った素直な思いをまとめたコラムを全文お届けする。
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僕は子供ながらホンダの第一期F1活動について本を読んで刺激を受け、モーターレーシングに興味を持った。まさかその自分が大人になってから第二期F1活動を取材して原稿を書く立場になれるとは思ってもいなかったので、1980年代から90年代にかけてF1の現場にいた当時は高揚したものだった。
だから1992年にホンダが第二期活動を休止したとき、なんだか気が抜けたような気がした。ちょうどバブル経済破綻の影響で取材経費の捻出が難しくなったこともあって、僕はF1の現場からは離れて国内レースの取材に軸足を置かざるを得なくなった。
■F1と距離を置き始めた頃
僕と入れ替わるように無限がF1活動を本格化させていったが、僕は勝手にホンダの“おさがり”で活動しているだけなのだと決めつけて、遠目に眺めるばかりだった。『無限ホンダF1プロジェクト』と名前を替えるが、ある程度ホンダが水面下で支援しているからなあ、とは推測したけれど突っ込んで取材することもしなかった。自分が近寄れなくなったF1には、こっちから距離を置くんだと拗ねていたのかもしれない。
今回橋本朋幸さん、坂井典次さんのお話を伺い当時の資料をひっくり返して改めて確認できた裏事情、すなわち無限ホンダF1プロジェクトは、ホンダの第三期F1活動再開を念頭にした前向きなプロジェクトだったと知っていたら、もう少し異なる方向から眺められていたかもしれない。
例えば1993年だったか全日本F3000選手権に現れた、ヘッドカバーに『無限HONDA』刻印がなされた謎の“MF308”は、今回取材対応いただいた橋本さんが、無限ホンダMF351HDを開発する前に手がけたエンジンだったと知っていたら、国内取材ももっと興味深いことになっていたはずだ。
また、1994年のモンツァにMF351HDが現れて突如として高性能を発揮したとき、現地からの情報を聞きながら無限ホンダF1プロジェクトにいったい何が起きたのかと頭がグルグルしたものだが、今回その意味がようやく納得できたし、1999年のニュルブルクリンクで2台のジョーダンが止まってしまったときにアナウンスされた怪しい“電気系トラブル”の意味も今回初めて本当の意味を知ることができた。