この6月で、『F1速報』は創刊30周年を迎える。1990年に創刊してから今日までレースbyレースでF1グランプリを追い続けてきた『F1速報』では、実にさまざまな人間&技術ドラマが展開させてきた。今回その30年間を集大成した『F1速報』の30年という記念ムックを刊行。本誌に長く携わってきたF1ジャーナリスト、ルイス・バスコンセロスが30年間のトップ10ニュースを選抜した。その一部を紹介したい。
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●10大ニュース・ピックアップ①
いかにして当時のFIA会長モズレーは1994年シーズンを崩壊させたか
F1史において、1994年シーズンは最も悲惨なシーズンのひとつに挙げられるだろう。ローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナの命を奪った痛ましい事故はいまだに人々の心にのしかかっているが、そもそもこのシーズン全体が不必要な論争や陰謀、そのほか個人的な愛憎劇などで台無しにされたと言える。
まず前提として、セナとウイリアムズが、この年の選手権を制したのち、F1から離脱すると見られていた。チームは前2シーズンを完全に制覇していたし、セナのキャリアも最高潮に達していたからだ。ただしミハエル・シューマッハーの実力については、まだ誰も気づいていなかった。
シューマッハーのベネトンB194はトラクションコントロールを搭載し、ギヤボックスも完全なるオートマチックであったが、これをFIAが把握していたということは、今日では多くの人が知ることである。しかし、セナとウイリアムズが勝って選手権から離脱するのを防ぐ唯一の手段と期待し、黙殺したのだ。
イモラでの悲劇で状況は一変し、伝えられるところによると、ベネトンのスポーティングサイドを担っていたトム・ウォーキンショーに対し、モズレーは「残りのシーズンはB194がレギュレーションに準拠するようにしてほしい」と明言したとされている。
しかし、この一件が露見するようなリスクをFIAが犯すはずもないと踏んだウォーキンショーは、警告を無視するどころか、マシンや燃料補給システムで実質的なレギュレーション違反を重ねていった。モズレーはFIAの裁定所にチームを訴えたが、裁判で真実が公になれば、彼もまた仮面をはぎ取られることは自明の理だった。
そこでモズレーは想像もつかない行動に出た。起訴人代表として、被告側の法廷弁護士である高名なジョージ・カーマンを聴聞会の前夜に呼び出し、秘かに合意を結んだのである。
結局ベネトンは無罪放免となり、シューマッハーはシーズンの4分の3を違法なマシンで走ったにもかかわらず自身初のワールドタイトルを獲得することになった。しかしウォーキンショーはシーズン末にベネトンから放出された。これは当時のチームマネージャーであるフラビオ・ブリアトーレとともにモズレーと交わした合意内容に含まれていたためだった。
そのわずか1年後、モズレーが目をかけていたニック・ワースが驚くことにベネトンのテクニカルディレクターへと任命された。ただし、この采配によりチームは下降線を辿ることになり、95年シーズンを限りにシューマッハーはフェラーリへ移籍。チームも2000年にルノーに買収され、02年からルノーとして参戦するに至り、ベネトンとしての幕を閉じた。