6月12日(金)、2020年シーズンの第18戦として予定されていたF1日本GPの中止が発表された。10年間の空白期間を経て、1987年から続いていた国内での開催が一度途絶えることになった。ここでは改めて、F1日本GPの歴史を簡単に振り返りたい。
日本GPは、1976年で一旦中断し、その中断期間を挟みつつ富士スピードウェイと鈴鹿サーキットの2カ所で開催されてきた。今回はF1が『F1世界選手権イン・ジャパン』として日本にやってきた1976年から、2019年までの近年の日本GPを紹介する。セナ・プロ対決や鈴木亜久里と小林可夢偉の表彰台獲得、さらには台風によるワンデー開催などさまざまな出来事が起きた日本GPを改めて振り返る。
■『F1世界選手権イン・ジャパン』〜富士スピードウェイでの開催
初めて日本でF1が開催されたのは、1976年のこと。当時は全日本F2000選手権の最終戦が『日本グランプリ』という名称で開催することが決まっていたため、F1は『F1世界選手権イン・ジャパン』という名前で富士スピードウェイにて開催された。
翌1977年からはF1が『日本グランプリ』の名称を使用するようになった。10年間の中断期間を挟んで1987年からは鈴鹿サーキットでの開催となり、大会名称も『フジテレビジョン 日本グランプリ』に変更。ホームストレートのシグナルの上や、表彰台の背景に冠スポンサーを務めるフジテレビのロゴがあったことを覚えている方も多いだろう。フジテレビのスポンサーはその後、2009年まで続いた。
そして1988年、1989年、1990年の3年間は、マクラーレン・ホンダのアイルトン・セナとアラン・プロストによる『セナ・プロ対決』が繰り広げられた。1988年にはセナが初タイトルを獲得、1989年はセナが失格となり、プロストが3度目のチャンピオンに輝いた。
1990年は接触によりセナとプロストの両者がリタイアとなった。その一方でラルースを駆る鈴木亜久里が3位に入賞し、日本人ドライバーとして初めて表彰台に。中嶋悟も6位に入賞し、セナ・プロ対決と日本人ドライバーの活躍が相まって大いに盛り上がりを見せた。
1998年にはマクラーレンのミカ・ハッキネンが優勝を決め、自身初となるタイトルを獲得。同時にブリヂストンタイヤを使用するドライバーとして、初めてのチャンピオンを獲得。
2000年には3年連続のチャンピオンを目指すハッキネンをフェラーリのミハエル・シューマッハーが下し、フェラーリ移籍後初めてのタイトルを鈴鹿で獲得。シューマッハーは鈴鹿で通算6度の優勝を挙げている。
そして2002年には佐藤琢磨がF1にデビュー。日本GPでは自身初入賞となる5位に入賞すると、2003年には代役参戦ながらも6位に入賞した。2004年はグランプリ期間中に台風に見舞われ、日曜日に予選と決勝レースを開催するワンデー開催に。F1史上初めての出来事だったが、琢磨はここでも予選4番手、決勝レースでも4位に入るという好成績を収めた。
2006年には鈴木亜久里が監督&オーナーを務めるスーパーアグリがF1にデビュー。ホンダエンジンを搭載し、タイヤはブリヂストン、ドライバーは佐藤琢磨と井出有治というふたりの日本人ドライバーを擁した。
一方、鈴鹿での日本GP開催は2006年で一度途切れることになる。2007年と2008年には大幅なコース改修を終えた富士スピードウェイでの開催となり、大雨のなか行われた2007年はルイス・ハミルトン(当時マクラーレン)が、2008年は逆転でフェルナンド・アロンソが勝利を収めた。