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F1 ニュース

投稿日: 2020.12.16 11:58
更新日: 2020.12.16 11:59

パトリック・ヘッドが語るウイリアムズとBMWの難しい関係「彼らは自前チームの立ち上げを目指していた」

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F1 | パトリック・ヘッドが語るウイリアムズとBMWの難しい関係「彼らは自前チームの立ち上げを目指していた」

 2020年F1第8戦イタリアGPを最後に、ウイリアムズ一家がF1グランプリに別れを告げた。チームの名は今後も残るとはいえ、創設者であるフランク・ウイリアムズとその娘クレア・ウイリアムズの撤退は、明らかにひとつの時代が終わったことを意味する。

 近年のウイリアムズは確かにグリッドを埋めるだけのテールエンダーに成り下がってしまっているが、コンストラクターズタイトル歴代2位の9回を誇る彼らは単なるF1チームではない、“超”がつくほどの名門チームだ。

 しかし、そんな彼らがなぜこんな末路を辿らなくてはならなくなってしまったのか。その答えを導き出すためには、時計の針を少し巻き戻す必要がある。

 1997年、ルノーのワークス活動終了にともない、ウイリアムズはその後2シーズンにわたってカスタマーエンジンの使用を余儀なくされる。1990年代を無双状態で支配した名門チームにとって、その『カスタマー2年間』は苦痛の時間と言えた。2000年、彼らはようやくワークスエンジンを手にする。1986年以来のF1復帰を果たすBMWとのジョイントだ。ホンダ、ルノーとともに栄光の時代を築いてきたウイリアムズにとって3組目となる自動車メーカーとの提携だ、期待しないわけがない。

 毎号1台のマシンを特集し、そのマシンが織り成す様々なエピソードを紹介する『GP Car Story』。最新刊のVol.34では、そんな2000年シーズンのウイリアムズFW22を特集。このページでは、当時チームの技術部門を統括する立場にいたパトリック・ヘッドのインタビュー記事を全文公開する。

 ウイリアムズ一家より一足早くヘッドはすでにチームを離れているが、チーム創設時からフランクと二人三脚で歩んできた彼は、まさにウイリアムズチームの生き字引。今回のテーマは2000年シーズンの話ではあるが、彼の言葉から、なぜウイリアムズ一家がチームを離れなければならなかったのか、そのヒントが隠されているかもしれない。
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■復権を目指して

──1997年にジャック・ビルヌーブが選手権を勝ち獲った後、ウイリアムズはウインフィールド・カラーのクルマで、2年間にわたって1勝もできませんでした。2000年にBMWをパートナーに迎えるまで、足踏み状態だったのでしょうか?

パトリック・ヘッド(以下、ヘッド):そうは思わない。1997年のクルマはエイドリアン(ニューウェイ)がデザインしたものだ。彼は1996年の終わりにはチームを離れていたが、クルマのデザインはエイドリアンが去る前に完成していて、チームにはどんな問題にも対処できる優秀なエンジニアが揃っていた。当時は年ごとの開発速度もそれほど速くはなかったし、1999年のクルマも実際にはそれほど悪くはなかった。

 ただあの頃には、もうルノーのエンジンは最強ではなくなっていた。フラビオ・ブリアトーレは、あのエンジンをルノーではなくスーパーテックと呼ばせたがっていたがね(笑)。

 ルノーから撤退の意向を聞かされて、私たちはそれから2年間はルノー・エンジンを使い、いわば離婚慰謝料のようなものとして、費用はルノーが負担するという約束を交わした。その後、フラビオがあのエンジンを自分のビジネスにして、私たちにもスーパーテック・エンジンの使用料を払わせようとしたんだ。

 1999年に走らせたBMWのテストカーは、基本的にはその年のシャシーで、2000年のクルマもおなじシャシーをベースに、少し違ったボディワークを取り入れたものだった。だから、1999年にはルノー・エンジンのクルマを走らせながら、実質的に2000年のテストをしていたとも言える。

──スーパーテック時代になると、ルノー・エンジンはほとんど開発されていませんでした。それだけに、BMWのエンジンには相当な期待をされていたのではありませんか?

ヘッド:トップチームに返り咲きたいという野心があったのは確かだ。ポール・ロシェは本当に素晴らしい人物で、みんなに自信を抱かせてくれたし、彼自身も自信に満ちた人だった。自分でCADの画面、あるいは製図板の前に立ってエンジンを設計したわけではないものの、彼は優秀な人材を見極めて雇い入れる能力に長けていた。後年、偉大な仕事をすることになるアンディ・コーウェルも、そこで育った人だ。

 いただけなかったのは、BMWの役員会がマリオ・タイセンを起用したことだ。彼は以前からBMWで働いていて、屋根付きのスクーターとか、いろいろなプロジェクトに関わっていた。彼らはマリオをBMWモータースポーツの責任者に据えた。そして、マリオがハインツ・パッシェンを招き入れ、もうひとり名前は覚えていないが、どうにも付き合いづらい人物をマネージャーのような立場で雇った。

 もうロシェが関与する余地はないのは明らかで、実際に彼は2000年後半にはBMW本社へ異動になり、BMWモータースポーツからは離れてしまった。もっとも、当時すでにロシェは70歳を超えていたはずで、そうした配置換えは正しいことだったのかもしれない。

──ロシェが外されて、失望したということですか?

ヘッド:彼はとても面白くて楽しい人だった。そして、BMWの誰もが彼を尊敬していた。父親のような人物というだけではなく、みんなが心から敬服していたし、そうする理由も十分にあった。だが、私に言わせれば、タイセンとその一派の人々は彼を不当に扱い、文字どおりに追い出してしまったんだ。ロシェがBMWのためにしてきたことに対し、彼らは然るべき敬意を払わなかった。

──BMWの内部で、複雑な動きがあったのでしょうね。ゲルハルト・ベルガーもBMWモータースポーツのディレクターとして関わっていましたが、誰が何の責任者なのか、明確になっていたのでしょうか?

ヘッド:ゲルハルトは、どちらかと言えばBMWモータースポーツのマーケティングや、イメージ戦略を担う立場だったと思う。彼とタイセンが『ふたりのボス』で、どちらか一方に他方を支配する権限があったかどうかは知らないが、分担して仕事をこなしていた。ゲルハルトは技術的な面には関与せず、マリオも商業的な面はゲルハルトに任せていたと思う。

ウイリアムズBMWの首脳陣。左からゲルハルト・ベルガー、フランク・ウイリアムズ、パトリック・ヘッド、マリオ・タイセン
ウイリアムズBMWの首脳陣。左からゲルハルト・ベルガー、フランク・ウイリアムズ、パトリック・ヘッド、マリオ・タイセン

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