「あれ? 角田裕毅はどこにいるんだ?」と、ぼくはニュージーランドのプケコヘ・パーク・レースウェイのパドックをさまようことになった。これまでの経験から、海外レースに出場中の日本人選手は大なり小なりどこか「浮いた」存在になりがちなので、特に約束をしていなくても雑然としたパドックのなかで見つけ出すのはさほど難しい話ではない。
しかし、すぐに見つかるだろうと思ったのにパドックとピットを1往復してみても角田の姿が見当たらない。「おや?」と、首をひねりながら、ぼくは初めて出かけたプケコヘ・パークのパドックをもう一度歩き直すことにした。
2020年の2月第2週、ぼくはカストロール・トヨタ・レーシング・シリーズ(CTRS)第4大会の取材のため、ニュージーランドにあるプケコヘ・パークへ出かけた。CTRSは、かつてはタスマンシリーズと呼ばれていたオセアニア地域独自のフォーミュラカーレースシリーズで、現在はトヨタエンジンを搭載したフォーミュラ・リージョナル相当の車両で開催されている。
南半球に位置するオセアニアで開催されるこのシリーズは、北半球が冬に向けてシーズンオフになる頃に春から夏のオンシーズンになるため、近年はヨーロッパがシーズンオフの間にもスーパーライセンスポイントが稼げるシリーズとして、F1を目指す若手選手が戦う場として注目を浴びている。
たとえばランド・ノリスやランス・ストロールはここでシリーズチャンピオンになってスーパーライセンスポイントを重ねたし、日本でトップドライバーとなったニック・キャシディもこのシリーズで育ったドライバーで、昨シーズンはレッドブル・ジュニアとしてヨーロッパで戦う角田がこのシリーズに参戦していた。
まさにF1への王道であるだけに、角田がどんな戦いぶりを見せるのか見ておきたかった。ただ、ぼく自身はまさか角田がその1年後にF1レギュラーの座を獲得するなどとは思っていなかったので、あくまでも育っていく途中経過を眺めておこうという気持ちでいた。
角田を初めて見たのは、2017年度の国内FIA-F4選手権にHFDP(ホンダ・フォーミュラ・ドリーム・プロジェクト)の一員としてステップアップしてきたときのことだ。HFDPからは毎年のように優秀な若手選手がステップアップしてくるので、当初ぼくにとっての角田は将来有望な若手のうちのひとりに過ぎなかった。
ただ印象に残っているのは、2017年シーズンはFIA-F4を戦うとともにJAF F4東日本シリーズにも並行して参戦するつもりでいる、と言ったことだった。
この時点で角田は前年、限定Aライセンスを取得して10月に4輪レースデビューを果たしたばかりで、5レースの経験があった。その、多いのか少ないのか分からない5レースでどんな成績を残していたか見ると、FIA-F4で2レース、JAF F4で3レース戦ってJAF F4で3連勝、FIA-F4でも1度表彰台に上がってるという、フォーミュラレースデビューイヤーとしてはとんでもない成績を残していた。
4輪レースを始めたばかりでそれだけのことができるなら、なおさらHFDPとして出走するFIA-F4に専念してしっかり成績を残すべきなのではないかとぼくは思ったのである。
しかし角田は当初の宣言通り2017年、最初の本格的シーズンを2シリーズ掛け持ちで戦い、そのインターバルにあるテスト走行もこなしつつ、高校にも通うという、まさに八面六臂のスケジュールに突入した。
正直なところぼくは「何を急いでいるのだろうか。積み重ねるべきときは確実に積み重ねていったほうがいいのではないか」と首をひねった。
ぼく自身はFIA-F4のレースを取材し、レポートを書く仕事をしていたため、角田を見る機会はFIA-F4の現場だけだった。当時の角田は、評判通り速いけれどもこのクラスのフォーミュラカーとしては珍しいデフのないクルマの動かし方に戸惑っているのかどこか思い切りに欠けているように見えた。また、大勢の大人に囲まれて居場所を見つけられず無口なまま孤立しているようでもあった。
ところが聞けば並行して参戦したJAF F4東日本シリーズでは開幕戦からポール・トゥ・ウインだという。状況が対照的だ。いったいどういうことなのかと、たしか2017年4月末のスポーツランドSUGOへJAF F4のレースを眺めに行った。そこでぼくは仰天することになる。