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F1 ニュース

投稿日: 2021.03.12 13:53
更新日: 2021.04.14 01:08

危険分子扱いされたライコネンのF1デビュー秘話。初陣で6位入賞の快挙にも「前にまだ5人いる」

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F1 | 危険分子扱いされたライコネンのF1デビュー秘話。初陣で6位入賞の快挙にも「前にまだ5人いる」

 2021年は、キミ・ライコネンがF1デビューを果たしてからちょうど20年のメモリアルイヤー。途中、F1から離れた時期もあったが41歳となった今も、あの時と変わることなくF1を走り続けている彼はまぎれもなく“レーサー”なのだろう(それは同じ年にデビューし、今年復帰するフェルナンド・アロンソも同じだと言える)。

 20年前、F1デビューを目前にしたライコネンの前に大きく立ちはだかったのがライセンス問題だ。当時21歳、年齢的には問題ないが、それまでの4輪レースの経験がわずか23戦、それもフォーミュラ・ルノーとフォーミュラ・フォードだけで、F3やF3000も未経験。口煩いF1サーカスの古参たちは、此れ見よがしにライコネン起用を発表したザウバーを批判した。

 一種の仮免状態でデビューしたライコネンがデビュー戦で見せた活躍はあえてここで書く必要もないが、前述の古参たちを黙らせたことに違いはない。しかし、彼のデビューは曰く付きだった事実は歴史を語る上で避けることはできない。

 毎号1台のF1マシンを特集し、そのマシンが織り成すさまざまなエピソードを紹介する『GP Car Story』。最新刊のVol.35では、ライコネンのF1デビュー20周年を記念して、彼が最初に駆ったGPカーである2001年シーズンのザウバーC20を特集。

 このページでは、ふたりのキーパーソン、ライコネンの個人マネージャーのスティーブ・ロバートソンと、チームマネージャーを務めていたベアト・ツェンダーが語部となって、危険分子扱いされたひとりの若者がスターダムにのし上がるまでデビュー秘話を紹介する。ページの都合上、本誌掲載版ではカットされた部分も復活させたノーカット版でお届けする。

* * * * * *

■向かうところ敵なし

 キミ・ライコネンのキャリアパスは、いろいろな意味で異例ずくめとも言うべきものだが、中でもとりわけユニークなのがそのスピード出世ぶり。なにしろレース出場経験がわずか23戦で、ノービスクラスのフォーミュラ・ルノーから最高峰のF1まで、一気にジャンプアップしてしまったのだ。スーパーライセンス取得資格が厳しくなったこともあり、キミのような大躍進はその後起きていないし、二度と繰り返されることもないだろう。

 若干二十歳のライコネンがブリティッシュ・フォーミュラ・ルノーを席巻したのは2000年のこと。今は亡きデビッド・ロバートソンとその息子スティーブが率いるマネジメントチームがその面倒を見ていた。ロバートソン親子は、ジェンソン・バトンとウイリアムズのマッチングも実現させており、首尾良く“二匹目のドジョウ”を捕まえたことは後のバトンの実績からも明らかだ。

「フォーミュラ・ルノー時代のキミは、単にレースで勝つだけじゃなく、その勝ち方がハンパじゃなかった」とスティーブは言う。「ラップレコードをすべて塗り替え、2位以下に15~20秒の大差をつけての圧勝というケースがほとんど。戦う相手は自分自身しかいないという感じで、独り異次元のレースを繰り広げる。そういうメンタルが確立されていて、だからこそ向かうところ敵なしの独走を演じることができたんだ。どれほど上のレベルであろうと、戦う心構えという点では、キミはまったく問題なかったよ」

■F1初走行

 ザウバーが名乗りを挙げたのは、ペドロ・ディニスとチームの関係が2000年の夏頃からぎくしゃくし始めていたことも無縁ではなかろう。メインスポンサーであるレッドブルの息がかかったエンリケ・ベルノルディが当時ザウバーのテストを担当しており、いちいちこれと比較されることにディニスが苛立った、というのがその理由だった。

「最初からペーター・ザウバーと直で交渉を進めた」とロバートソン。「将来有望な若手を獲得すれば、それはチームにとって大きなチャンス。キミのずば抜けた才能は誰が見ても一目瞭然だし、引き取り手はほかにいくらでもいるから長くは待てない、と説得を試みた。ペーターは少し迷っていたようだが、私の父がスーパースターになる逸材だと太鼓判を押し、ついにムジェロでテストすることに同意したんだ」

キミ・ライコネン(右)の個人マネージャーを務めていたスティーブ・ロバートソン(左)
キミ・ライコネン(右)の個人マネージャーを務めていたスティーブ・ロバートソン(左)

 当時ザウバーのチームマネージャーで、今もその地位にあるベアト・ツェンダーにとっては、これはどうやら寝耳に水の話だったらしい。

「ロバートソン親子がドライバーマネジメントを手掛けているのは聞いていたが、ほとんど付き合うこともなかったので、キミの存在も知らなかった。ムジェロでキミをテストする、といきなり言われても面食らうわけさ。当時のキミはA級ライセンスさえ持っていなかったんだから無理もない」

「F1テストでもそれが必要だとなって、大慌てでフィンランドの自動車協会に申請したのを憶えている。ライコネンという苗字も初耳で、綴りを教わったりしてさ。2000年9月12日が彼のF1初走行。テストは3日間を予定していて、ほかにマクラーレンとフェラーリが来ていたな」

 ロバートソンも当時のことは今でもよく覚えているという。「1周だけ速く走ってピットに戻る、それを4、5回は繰り返したかな。急にやると首の筋肉を痛めてしまうからね。なので、初日のキミはせいぜい30周くらいしかしていないが、それでも最後の方はかなりの好タイムが出ていた」

「我々は不思議とも思わなかったが、ザウバーのエンジニア連中は早くも興奮気味で、初日をパスしていたペーターとウイリー・ランプが翌朝、押っ取り刀で駆けつけたほどだった。するとキミが最初の10周かそこいら最速を連発して、ペーターが喜んだのなんの」

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