「1冊1台」をテーマに、F1グランプリを戦ってきた歴史的名車たちにスポットライトをあてる不定期敢行ムック『GP Car Story』は、2021年の今年、創刊10年目を迎えます。これまでにとりあげてきたマシンは35台──その名車たちを改めて振り返る企画を立ち上げました(こちらも不定期ですが……)。
1回目の今回は、GP Car Storyの第一歩となった名車中の名車『マクラーレンMP4/4・ホンダ』。アイルトン・セナにとって最初のタイトルマシンであり、アラン・プロストとともに16戦15勝の金字塔を成し遂げたまさに夢の1台だ。
スペシャルエディション本を含めて、40タイトル以上もGP Car Storyに携わってきた者としては、「もっとこういうことができたんじゃないか?」と思わせるほど大昔に作った1冊なので、いずれアップデート版が出るかもしれませんが……それはまた別のお話ということで。
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なぜ、1988年のマクラーレン・ホンダはあれほど強かったのか? それには明瞭な理由がある。強力なエンジン、素性の良いシャシー、組織をまとめる代表、独創性に富んだ設計者、統率されたスタッフ、そして、最強のドライバーペア……タイトル争いに欠かせないパズルのピースが、すべて揃っていたからだ。
ロータスからマクラーレンへの移籍は、アイルトン・セナが尊敬する同郷の先輩エマーソン・フィッティパルディが辿った道と重なる。これでようやく本当の意味でF1を戦えるチームにその身を置けるが、それは同時に大きなリスクも伴う移籍だった。チームメイトはすでに2度の戴冠を果たしているアラン・プロストだ。一筋縄ではいかない戦いが待っていた。
■前人未到の16戦15勝を達成
1988年のマクラーレン・ホンダは前人未到の16戦15勝の偉業を成し遂げる。近年、F1を完全支配するメルセデスを筆頭に、1990年代のウイリアムズ・ルノー、ミハエル・シューマッハー時代のフェラーリ、2010年代初頭のレッドブルなど、その後、選手権を完全制覇したコンストラクターはいくつも現れど、インパクトという意味で88年のマクラーレンを上回る存在は皆無と言っていい。
その根拠は、前述3チームは基本エース格のドライバーが選手権を有利に戦っていたのに対し、88年のマクラーレンはふたりの才が最後まで激しくぶつかり合ったからに他ならない。そんなF1史に刻まれる戦いを演出したのが、MP4/4だった。
当時のF1を統括していたFISA会長のジャン-マリー・バレストルは、極東の小国からやってきた自動車メーカーが、欧州文化のF1を席巻することに我慢ならなかった。ゆえに彼は規則によるホンダつぶしにかかる。FISAは88年限りでターボエンジンの禁止を決めた。これによりターボから自然吸気(NA)へ移行したエンジンビルダーは少なくなかった。
FISAの攻撃はさらに続く。燃費に難があったホンダ・ターボに足枷を履かせるかのように、タンク容量を195リットルから150リットルに縮小する厳しい燃料規定を設けたのだ。
過給圧も4.0バールから2.5バールに下げられ、理論的にパワーダウンは必至(ブースト圧を制御するためのポップ・オフ・バルブが87年よりFISAから供給されたが、品質差に各メーカーが泣かされた。その改善の手助けをしたのがホンダであり、以後安定した精度を誇り、同社の高い技術力を示した)。その一方で、自然吸気は87年から排気量3500cc、燃料無制限となり激戦が予想された。それでもホンダはFISAの挑戦を受けて立った。
「ホンダだけに不利な規定ではない」という本田宗一郎の一言で、ターボ継続を決断する。得意の電子制御に加え、燃料温度を制御してさらに高度なファインコントロールを達成。ターボチャージャーにはセラミックタービンブレードやボールベアリング軸受けを採り入れたことでエンジンレスポンスの向上も図り、パワーを落とさずに省燃費化を実現させる。
加えて大幅な低重心化も図られた。結果、RA168Eは強力なパワーと同時にレスポンスが改善され、最終的には出力685馬力を実現。ライバルに付け入る隙を与えなかった。