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F1 ニュース

投稿日: 2021.06.08 15:51
更新日: 2021.06.09 13:14

ジャン・アレジが語る1992年のフェラーリ。「F92Aにコスワース・エンジンが搭載されていたら勝てていた!」

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F1 | ジャン・アレジが語る1992年のフェラーリ。「F92Aにコスワース・エンジンが搭載されていたら勝てていた!」

 2020年、F1世界選手権において4年ぶりに未勝利に終わったフェラーリは、コンストラクターズランキング6位の屈辱的な結果に終わった。F1の歴史と二人三脚で歩んできた唯一の存在であるフェラーリ、その70年を超える歴史の中で過去に15回未勝利シーズンを経験している。今年、もし昨年に続き未勝利に終わった場合、マラネロにとっては自身の歴史上2例目の「連続シーズン未勝利」の不名誉記録となってしまう。そう、逆に言えばその1例以外、フェラーリは2年以上未勝利をなんとか回避してきたことになる。その一例こそ、歴史に残るフェラーリ暗黒時代、59レース未勝利に終わった1991年から1993年までの3シーズンだ。

 なかでもその中間にあたる1992年は、まさに“ドン底”のフレーズがぴったりあてはまる最悪のシーズン。そんなシーズンに生まれたのがフェラーリ・F92Aだ。

 毎号1台のF1マシンを特集し、そのマシンが織り成すさまざまなエピソードを紹介する『GP Car Story』最新刊のVol.36では、約30年前の歴史に残るフェラーリ暗黒時代のまさに象徴ともいえるフェラーリ・F92Aを特集する。

 成績としてはまさに“駄馬”だったF92Aだが、その外観の美しさゆえに多くのファンがいる、まさに希少な存在である。フェラーリ移籍2年、ついに念願のカーナンバー“27”をまとうことになり、ジル・ビルヌーブの再来を予感させた若きジャン・アレジの存在と相まって、F92Aを愛する者、ティフォシは多かった。そんなアレジ自身、いまだにF92Aは“特別”だと語る。このページでは、6月9日発売の最新刊『GP Car Story Vol.36 Ferrari F92A』に掲載されるジャン・アレジの取り下ろしインタビューを全文公開。フェラーリのエースとして臨んだ初めてのシーズン。その中でアレジが経験した苦しみ、そして希望を赤裸々に語ってくれている。

* * * * * * * *

──1991年のフェラーリは競争力を欠き、アラン・プロストの離脱などもあって、翌年に向けてチーム体制の大幅な見直しを迫られました。組織改革がどのように進められたのか聞かせていただけますか。
「僕がフェラーリとの契約にサインしたのは1990年で、アランがチャンピオン目指して戦っていた。ところが、翌シーズンはタイトルどころか1勝もままならないという有り様だ。経験豊富なアランにいろいろ教えてもらうつもりだったのに、ファクトリーが大混乱に陥り、夏頃にはもう内戦勃発という状況だった。僕はF1にフル参戦して2年目の新参だし、厳しいなんてもんじゃなかったよ。本来ならもっと静かで落ち着いた環境で走っているはずだったのにね。とはいえ、アランから多くを学び、それが後のキャリアに役立ったことは間違いない」

──プロストが抜けてしまったのはショックだったてでしょうね。“プロフェッサー”の言葉どおり、あなたの個人教授となることが期待されていましたから。
「まったくさ。一緒に仕事をしていた時はいつだって協力的だったし、おまけにすごく速かった。だから、勉強になったという意味ではいいシーズンだったと思うけど、チームの状況があまりにも混乱していた」

──91年限りでスティーブ・ニコルがチームを出て、入れ替わりにハーベイ・ポスルズウエイトが戻ってきました。そんなさなか、ジャン‐クロード・ミジョーは、あの驚くべき空力コンセプトを練っていたわけです。
「ハーベイとミジョーがいたからこそ、自分が評価してもらえたという部分がある。僕がティレルで与えられたマシンは、当時の最先端を行くコンセプトが盛り込まれていて、それを作ったのがこのふたりなんだ。ジョン・バーナードの手法はもう時代遅れになりかけていて、でもマクラーレンはそれを捨て切れずにいた。ホンダの強力なエンジンのおかげで、かろうじてトップレベルに居座っていたという感じかな。シャシーコンセプトに多少問題があっても、エンジンさえ良ければ、レースでもそこそこ勝てるからね。その当時、文句なしのベストと評判を呼んだのがティレルだったわけ。だから、ミジョーとハーベイがチームに戻ると知って、うれしかった。僕は彼らの仕事の進め方を知っているし、あの技術力が自分のバックについているとなれば、間違いなくいい仕事ができると考えたんだ」

■フロア剛性の問題

──完成した92年型マシンをテストした感想はどうでしたか。
「調整が必要だったことは確かだね。フロアの剛性が足りなくて、たわんでしまうことが問題だった。そのせいで空力に悪影響が出て、風洞で計測した値とズレが生じてしまったんだ。フロアのねじれとかは、実際にマシンで走行してみないと分からないからね。でも、それは徐々に改善されていったから、結局のところエンジンが最大のネックだったとしか言いようがない。もうお話にならないくらい非力で、おまけによく壊れた。チーム内部で“ブローバイ”と名付けられたトラブルさ。走行中にむやみやたらとオイルを吹くので、そう呼ばれるようになったんだ。パフォーマンスが期待外れのうえに、20周もするとオイルが空になってしまうから目も当てられない。下手をすると、エンジンが丸ごと壊れてしまうんだから」

──それは大変でしたね。
「大変どころの騒ぎじゃないよ。それでチームがどういう解決策を採ったかというと、予備のタンクをひとつ搭載することだった。通常の倍のオイルを消費するから仕方ない。当然、その分重くなるけどね。しかも、 トラブルはそれだけじゃなかった。20周後くらいにまたしてもピットボードが出て、見れば『P‐oil』と書かれている。これは、オイルポンプに問題があるという合図だ。今度はオイルを循環させるポンプが駄目になって、レース序盤で脱落ということが、いったい何度あったことか……」

オイルを吹くだけではなく、オイルポンプにも問題が発生し、レース序盤で脱落することもしばしば。
オイルを吹くだけではなく、オイルポンプにも問題が発生し、レース序盤で脱落することもしばしば。

──最初のテストで、すでに多難なシーズンを覚悟していたということですか。
「はっきりしていたのは、フロア剛性に問題があるということさ。イモラで散々テストした結果、ウエット路面ではそれほど悪くないことが分かった。空力システムの基本はきちんと押さえられていて、それが希望の光と言えたかな。でも、F1はひとつの巨大プロジェクトなわけだから、エンジン性能があそこまでお粗末だとほとんどチャンスはなかった」

──それでも開幕戦南アフリカGPは、予選5位と健闘しました。まずまずの出来だったと言って良かったのでは?
「予選はいいとしても、レースがね……。ずっとミハエル(シューマッハー)を後方に従えて走っていたんだけど、スタート時はイエローだったベネトンがフィニッシュした時には茶色になってたからなあ(笑)」

──ウエットの走りは良かったということですが、3位表彰台を獲得した雨のスペインGPは確かに素晴らしかったですよね。
「記憶があやふやだけど、確かに表彰台に上がった記憶がある。かなり雨が激しく降っていたよね」

──モナコGPの予選4位は、マシンの進化にかなり手応えを感じたのではありませんか。
「そうだね。さっきも言ったように基本は悪くないマシンで、エンジンがすべての元凶という感じだった。ところが、エンジンの担当者は、冷却に問題があるからだとミジョーを責める。じゃあ、マシンを開けて調べてみようという話になって、そのあたりから泥仕合の様相を呈し始めたんだ。それまで縦置きだったギヤボックスを、シーズンの途中で横置きに変えるということまでやってね。がむしゃらに開発は進めるんだけど、エンジン部門とシャシー部門の間でいつも責任を押しつけ合うという具合で、どうにも連携プレーができているとは言えない状態だった」

──そのモナコGPの決勝では、シューマッハーに当てられた影響で電子制御系が壊れ、リタイアに終わっています。
「当時の彼はやたらアグレッシブだったから、あのときも随分無茶なことをするな……とあきれたものだよ」

「結局のところエンジンが最大のネックだったとしか言いようがない」と語ったジャン・アレジ
「結局のところエンジンが最大のネックだったとしか言いようがない」と語ったジャン・アレジ
1992年モナコGPでは予選4位を獲得。エンジンを除けば基本は悪くないマシンであった。
1992年モナコGPでは予選4位を獲得。エンジンを除けば基本は悪くないマシンであった。
シューマッハーに当てられた影響でリタイアに終わった1992年モナコGP
シューマッハーに当てられた影響でリタイアに終わった1992年モナコGP

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