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F1 ニュース

投稿日: 2021.10.09 14:30
更新日: 2021.10.09 14:00

「トラブル続きでどうしようもなかった」ゴードン・マレーが語る“ラジカルすぎた失敗作”ブラバムBT55

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F1 | 「トラブル続きでどうしようもなかった」ゴードン・マレーが語る“ラジカルすぎた失敗作”ブラバムBT55

 これまでもF1ワールドチャンピオンたちが自らの名を冠したチームを立ち上げたことは何度もあったが、ドライバーとしてもチームとしてもチャンピオンになったのは、長いF1の歴史のなかでもジャック・ブラバムの『ブラバム』だけである。そんな名門ブラバムが、F1を去ってから2022年の来年でちょうど30年になる。

 ブラバム・チームの歴史は大きく3つに区分できる。ジャックが自らオーナードライバーとして走っていた時代、バーニー・エクレストン体制の時代、そして撤退までのアフター・バーニーの時代。

 車名『BT』の由来にもなっている、ジャックには信頼できるパートナーがいた。デザイナーのロン・トーラナックだ。ジャック時代のクルマはトーラナックひとりが手がけていた。まるでそれをトレースしたかのようにバーニー時代のブラバムも、ひとりのデザイナーが長くデザイナーとして君臨した。ゴードン・マレーだ。

 物議を醸したファンカーやパネル冷却の突飛なクルマをデザインする一方で、『美しいクルマは速い』を実践したBT49やアローシェイプのBT52など、レーシングカーデザイナーとしてのマレーの表現力は同じ時代の同職の者たちとは一線を画すものだった。そんなマレーがブラバムで最後に手がけたのが『フラットフィッシュ』の異名をとったBT55だった。

 毎号1台のF1マシンを特集し、そのマシンが織り成す様々なエピソードを紹介する『GP Car Story』最新刊のVol.37では、ブラバムでのプロジェクトとしては失敗に終わったが、マレー個人としてはそのコンセプトで後に偉大な金字塔を打ち立てることになるきっかけとなったBT55を特集する。

 このページでは、10月7日発売の最新刊『GP Car Story Vol.37 Brabham BT55』に掲載されるゴードン・マレーの取り下ろしインタビューを、誌面の関係で泣く泣くカットした部分を復活させた完全版でお届け。ブラバムで再びタイトル争いを演じるために練り出したローラインコンセプト開発の苦悩と失敗の原因、そしてMP4/4での成功につながるエピソードを隠すことなく打ち明けてくれている。

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──ブラバムはネルソン・ピケとともに、1983年のドライバーズ選手権を勝ち取りましたが、それに続く1984年、1985年は完全に失速したように見えました。

「1984年のBT53は、事実上BT52のサイドポンツーンを長くしただけのクルマだ。私たちとしては、開幕から連戦連勝だろうと思っていたし、実際、あのクルマは間違いなく速かった。ところが、レースでは毎回のようにターボが壊れて、優勝や表彰台もあったとはいえ、選手権は惨敗と言うべき成績に終わった。あの年は本当なら楽勝だったはずで、クルマは良くまとまっていた」

「リタイアの原因はすべてターボ関連だった。BMWがサプライヤーをKKKに替えてからターボのブローアップが頻発し、ギャレット製に戻すまでは、まともにレースを完走することもできなかったんだ。BMWはドイツのサプライヤーを使うことを望んだ。本社から圧力がかかったのか、あるいはKKKに『どうしてアメリカ製のターボを使うんだ?』と言われたのか、そのあたりの事情は知らないけどね。ともあれ、私はBMWの役員会へ直談判に行き、ターボのサプライヤーをギャレットにしてもらった」

「1985年シーズンには、さらに細かい改良を重ねたクルマで臨んだ。だが、今度はタイヤが変わった。バーニー(エクレストン)がピレリと契約したんだ。私たちは、またしても本来のパフォーマンスを発揮できなかった。そうしたことがなければ、BT52から派生したクルマは、以前のBT49と同様に輝かしい3年間を過ごせたはずだ。バーニーはいつも重要なファクターを良くない方にばかり変えていた」

「BT44が常勝マシンになりそうだったときには、旧式なうえに大きくて重いアルファのフラット12にスイッチした。その後、エンジンをコスワースに戻すと、私たちはすぐに競争力を回復したが、またBMWターボの開発に付き合って苦戦することになった。そして、ようやく勝てるようになったところで、タイヤのサプライヤーを変えてしまったんだ。いつものように『これでうまくやってくれ、ゴードン』と言ってね。どうにかターボを元に戻したと思ったら、次はまったく知らないタイヤ会社というわけだ」

「そのタイヤも最初は話にならない代物だった。それまでピレリの供給先は小規模チームばかりで、当然のことながら、クルマはあまり大きなダウンフォースを発生していなかった。とりあえずエストリルでテストをすることになって、タイヤを取り付けて走らせてみると、ストレートを通過するクルマのホイールリムが路面に触れんばかりになっていた。ダウンフォースに耐えられず、タイヤが完全に押し潰されていたんだ! それを見て私たちはすぐに撤収し、ピレリはタイヤを設計し直さなければならなかった。結局1985年シーズンは、タイヤを機能させる努力に費やされた。あの1983年のハードワークを、次の2年間はまったく生かせなかったことになる。まあ、それがモーターレーシングというものだ……」

ゴードン・マレー(1986年ブラジルGP)
ゴードン・マレー(1986年ブラジルGP)

■BT55の狙い

──BT55のコンセプトについて説明してもらえますか?

「重心高を下げることが主眼ではなかった。もちろん重心は低い方がいいのだが、重要なのはリヤウイングがクリーンな気流のなかにあって、空力効率が驚くほど高かったことだ。直立したBMWエンジンでは、エアボックス(吸気プレナム)がリヤウイングの直前にあり、それがBT52のときから変わらない難点のひとつだった」

「プレナムを完全に露出させるとか、カウリングで覆うとか、独立したポッドを作るとか、できることは何でも試した。風洞の結果からも、それが問題であることは明らかだった。あるとき、思い切って風洞模型のエアボックスの部分をそっくり削り取ってみると、当然のことながらリヤウイングの効率が一気に跳ね上がったよ。そんなことを3年間続けた末に、私はどうにかしてあのエアボックスをなくすしかないと決心した」

ブラバムBT55(1986年ブラジルGP)
ブラバムBT55(1986年ブラジルGP)

■低いボディラインを狙って


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