ミハエル・シューマッハーにルイス・ハミルトン、鈴鹿でも大いに強さを誇った“時代の覇者”たちだが、彼らの対抗馬という難しい立場に置かれたのが、いずれもF1王者を父にもつ“2代目”たち、デイモン・ヒルとニコ・ロズベルグだった。ふたりが悲願ともいえる初(にして唯一の)王座をつかんでいくなか、意義深い勝利が鈴鹿で刻まれている。
(※本企画における記録等はすべて、それぞれの記事の掲載開始日時点のものとなる)
■1994、1996年ウイナー:デイモン・ヒル
1962年と1968年のF1王者で、モナコGP、ル・マン24時間、インディ500という世界3大レース制覇も成した英傑グラハム・ヒル。その子、デイモン・ヒルには、あらゆるスポーツで大物選手のジュニアたちにかけられる期待の大きさ、これが最初から重圧として存在していたといえよう。グラハムが1975年に飛行機事故で亡くなってしまっていたことも、デイモンにさらなる重圧を加える要素となっていたかもしれない。
遅めのスタートとされるステップアップキャリアにおいて決して順調とはいえなかったデイモンだが、1992年にF1デビューを果たし、翌1993年は当時の最強陣営ウイリアムズ・ルノーのレースドライバーに就任する。
ヒルにはウイリアムズ・ルノーのテストドライバーとしての経験が充分にあったとはいえ、異例の大抜擢だ。F1フル参戦は初めてになる32歳(1993年開幕時)に舞い込んだ一世一代のビッグチャンスだった。その分、加わる重圧も半端ではない。
ヒルは1993年に初優勝を含む3勝(3連勝)をマーク。同年の僚友だったアラン・プロスト(4度目の王座獲得)が引退し、翌1994年はアイルトン・セナがチームメイトに。しかしセナは5月1日のサンマリノGP決勝レースの事故で亡くなってしまい、ヒルはウイリアムズ2年目にして押し出されるようにエースの座に就く。またもや重圧が増した。
しかも競うべき相手はミハエル・シューマッハー(当時ベネトン)だ。勝つのは大変な相手である。
実際、1994年と1995年はシューマッハーがドライバーズチャンピオンの座を獲得し、ヒルは敗れ続けることになる。1994年は“最終戦1点差接触決着”だったが……(ベネトンのエンジンは1994年がフォード、1995年がルノー。コンストラクターズ王座は1994年がウイリアムズ、1995年がベネトン)。
続く1996年はシューマッハーがフェラーリに移籍し、低迷中のマラネロではさすがに即王座は難しい状況が見込まれた。つまり、ヒルにとって1996年は絶対にタイトルを獲らなければならないシーズン、ということになった。またもや重圧アップ。
しかもこの年の新人チームメイト、ジャック・ビルヌーブが手強かった。ヒルはポイント首位を走り続けていくが、終盤に失速気味となり、ルーキー相手に王座獲得を決められないまま最終戦日本GPを迎えてしまう。
鈴鹿サーキットが初めて最終戦を開催したのが、この1996年だった。ヒルが王座を獲得するためには鈴鹿で1点獲ればよく、6位でOK(当時は6位までが入賞)。ビルヌーブ逆転王座のシナリオは自身の優勝かつヒル無得点のケースのみだ。ヒルが圧倒的に有利であることは間違いなかった。
でも、予選ではビルヌーブがポールポジションを獲得し、ヒルは予選2番手。大丈夫だとは思うが、流れ的にどうしてもよろしくなく見えてしまう……。
しかし決勝、ヒルはそんな外野の視線を跳ね返すかのように堂々の走りで優勝してみせるのだった。スタートで先頭に立ち、そのまま全周回首位で勝つ“スタート・トゥ・フィニッシュ”。チャンピオン獲得自体は、スタート出遅れから苦戦のビルヌーブが37周目にタイヤが外れるというまさかの状況でリタイアした時点で決まっていたが、ヒルはその後もレースをしっかり締め、優勝で有終の美を飾った。
この1996年限りでのウイリアムズ離脱がシーズン途中で決まっていたヒルにとって、初王座獲得の実質ラストチャンスともいえる状況だった。この年はシューマッハーと王座を争ったわけではなかったが、彼が放つ強烈な光に覆われて存在を主張できずにいた日々を越え、それ以外のあらゆる重圧も払拭して、ヒルはついに頂点に立ったのである。
F1初の親子チャンピオン誕生。秋晴れの鈴鹿に響き渡った優勝ドライバーの国歌、God Save The Queen(英国国歌)には格別の感動と美しさが宿っていた。
なお、ヒルにとってこの1996年日本GPは鈴鹿での2勝目である。1994年、荒天による赤旗中断で、当時の規定によりタイム合算2ヒート制になったレースでヒルは鈴鹿F1初勝利を記録していた。これは当時苦戦を強いられ続けていたシューマッハーを相手に勝ち獲った好内容の白星であり、ヒルの実力の確かさと意地を感じさせるレースだった。