これまでに鈴鹿サーキットで開催されたF1日本GPは31回(1987〜2006、2009〜2019年)。その歴史には、印象強烈なる伝説的予選ラップも幾度となく刻まれてきている。今回は『鈴鹿F1優勝偉人伝』の特別編として、選りすぐりの3ラップにフォーカスした。
■1989年アイルトン・セナ:1分38秒041
厳選3ラップのなかでも、いきなりこれがベストワン、かもしれない。鈴鹿サーキットで初めて、当時最強のマクラーレン・ホンダだけが予選1分40秒切りの世界に踏み入った1989年。同門対決のチャンピオン争いで剣ヶ峰の状況にあったセナが土曜の予選2回目で見せたポールポジションラップは圧巻だった。
当時は金曜日と土曜日に、いわゆる計時予選が1回ずつあった時代だが、金曜の予選1回目にセナはただひとり1分40秒を切る“アンダー100秒”の世界に既に入っていた。タイムは1分39秒493。そして翌土曜の予選2回目、セナはそのタイムをさらに大きく更新する。
1分38秒041──。
鬼気迫るラップだった。当時の車載映像の迫力が凄い。シケインへの進入ではマシンがバタつくなど、決して綺麗にまとまったラップではなかったと思うが、それが一層凄さを助長した。
同じマクラーレン・ホンダMP4/5に乗る宿敵、アラン・プロストもセナに続いて1分40秒を切るが、予選2番手につけたプロストのタイムは1分39秒771。2番手に1.7秒差というのは現代F1では考えられない話で、全盛時のセナの本気は人智を超越していた、そう言っても過言ではない。時代背景の違いを考慮しても、そう言えるだろう。
また、1分38秒041が出た直後のライバルたち、プロストやフェラーリ勢(ナイジェル・マンセル&ゲルハルト・ベルガー)の三者三様の表情、これが実に良かった。こういう“演出効果”も、深い記憶が刻まれるためには必要である。
前回も述べたが、1989年のF1日本GPはとにかく最高だ。すべての面において──。
■1991年ゲルハルト・ベルガー:1分34秒700
1991年、王者マクラーレン・ホンダはウイリアムズ・ルノーに追い詰められてF1日本GPを迎えていた。
ドライバーズタイトル争いに関してはセナ(マクラーレン)がマンセル(ウイリアムズ)をリードしており、これは逃げきれそうな点差だったが、コンストラクターズランキングでは鈴鹿の前のスペインGPでシーズン2度目の首位陥落を喫しており、1点差ながらウイリアムズが首位だったのである。
しかし残り2戦という土壇場で、マクラーレン・ホンダMP4/6は蘇った。鈴鹿ではウイリアムズ・ルノーFW14と速さを競えるレベルのマシンになったのだ。見事なる“カムバック”だった。
予選2回目のポールポジション争いは、セナとマンセル、そしてベルガー(マクラーレン)による“異次元ニューレコードバトル”に。4番手以下が1分35秒台にも入れないところで、セナ、マンセル、ベルガーの3人は1分34秒台という異世界で戦ったのである。
この争いを制したのはベルガーだった。2番手セナとは0.198秒差、3番手マンセルには0.222秒差で、ベルガーはポールポジションを掴み獲った。
ちなみに、当時の“速報計時”ではベルガーのタイムは1分34秒699だったが“正式計時”は1分34秒700とキリのいいものに改まっている。異次元に抜け出しての三つ巴の戦いを経てのニューレコードだっただけでなく、このピッタリさ加減も印象度と定着度を上げたのではないだろうか。
そしてなにより、このタイムが破られたのは2001年と実に長寿であった。だからその間、「これまでの鈴鹿での予選最速タイムは?」「1991年のベルガー、1分34秒700」というかたちで、どんどんと人々の記憶に擦りつけられていったのである。
また、セナやマンセルといった本命どころのタイムではなく、(少々失礼ながら)この時代のベスト・バイプレーヤーで、好漢の二文字がよく似合うベルガーのタイムだったことも、1分34秒700が長く愛された理由だったように思う。