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投稿日: 2017.01.30 17:41
更新日: 2017.02.01 12:31

意外と深い、ランボルギーニとモータースポーツの関係【大谷達也コラム第5回】

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コラム | 意外と深い、ランボルギーニとモータースポーツの関係【大谷達也コラム第5回】

「世界最高のスポーツカーを自らの手で作り上げる」

 この目標を掲げたフェルッチオ・ランボルギーニが自動車メーカー“アウトモビリ・フェルッチオ・ランボルギーニ”をイタリア・ボローニャ近くのサンタガータ・ボロネーゼに設立したのは1963年のこと。ただし、ライバルとされたフェラーリとは異なり、ランボルギーニは当初よりモータースポーツと一定の距離を置いてきたというのが従来からの通説である。

フェラーリをライバルとして誕生したランボルギーニはロゴには猛牛をモチーフに。
フェラーリをライバルとして誕生したランボルギーニはロゴには猛牛をモチーフに。

 もっとも、彼らの最初の作品である350GTからして3.5リッターの高性能V12エンジンを搭載していたのだから、ランボルギーニがモータースポーツ界とまったく無関係でいることは不可能だった。たとえば、このエンジンを設計したジオット・ビッザリーニはフェラーリから移籍してきたエンジニアだったほか、レーシングカー・コンストラクターのダラーラを創設したジャンパウロ・ダラーラも350GTのプロジェクトには深く関わっていた。

 350GTとその後継モデルである400GTが大成功を収めると、ランボルギーニはさらなるスーパースポーツカーの開発に手を染めることになる。これがV12 4.0リッターエンジンをコクピット後方に搭載した伝説的ミッドシップ・スポーツカー、ミウラだった。そしてミウラのシャシー開発を主導したのは、またしてもジャンパウロ・ダラーラ。

 さらに、当時テストドライバーを務めていたボブ・ウォレスは、ミウラをベースとするレーシングカー“イオタ”の開発を進めたものの、フェルッチオ・ランボルギーニが新事業に乗り出したこともあって、イオタは実戦に挑むことなく「幻のランボルギーニ・レーサー」としてその役割を終えることになる。

 この直後の1973年にフェルッチオはランボルギーニの株式を友人などに売却。これと前後して石油ショックが起きてスーパースポーツカーの販売は低迷し、ランボルギーニも窮地に立たされることとなる。

 このとき、BMWモータースポーツのボスだったヨッヘン・ニーアパッシュはランボルギーニにミッドシップ・スポーツカーの開発・生産を委託。ここでもダラーラは重要な役割を演じたが、ランボルギーニ社内で並行して進められていたプロジェクトが頓挫したためにBMWのスポーツカー計画からも撤退を余儀なくされた。

 ちなみに、このとき開発されたスポーツカーがBMW M1で、このモデルを用いたワンメイクレース“プロカーレース”が1979〜1980年にF1グランプリのサポートイベントとして開催されたことは、古くからのモータースポーツファンにとって懐かしい思い出と言えるはずだ。


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