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レーシングオン ニュース

投稿日: 2021.05.26 10:00
更新日: 2021.09.01 10:58

【忘れがたき銘車たち】華々しいデビュー後、規定変更で苦戦を強いられた『グループA トヨタ・スープラ』

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レーシングオン | 【忘れがたき銘車たち】華々しいデビュー後、規定変更で苦戦を強いられた『グループA トヨタ・スープラ』

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツweb。両者がコラボしてお届けするweb版 Racing on。

 このweb版 Racing onでは、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、グループAに参戦したMA70型のトヨタ・スープラです。

* * * * * *

 グループA時代の全日本ツーリングカー選手権(JTC)におけるトヨタ車といえばAE86、AE82(カローラFX)、AE92、AE101といった“テンロク”マシンによる最小排気量クラスのディビジョン3においてのホンダ・シビックとの争いが強く印象に残っている方も多いことだろう。

 トヨタも最大排気量クラスであるディビジョン1(グループAの発足初期には呼称が異なったが、ここではディビジョン1とひと括りにさせていただく)を戦ったことがあった。

 その時に戦ったトヨタのマシンがMA70型のトヨタ・スープラ(70スープラ)だ。この70スープラは、デビューこそ幸先のいいものだったが、その後は苦闘を続けることになる。

 1985年にスタートしたグループA規定でのJTCにおいて、トヨタ車はMA61型の2代目セリカXX(米国名ではスープラという呼称で、サードやC-ONEが走らせたXXはスープラというエントリー名だったこともある)が断続的に参戦したことはあったが、本格的に最大排気量クラスへと参戦を果たしたのは1987年、第4戦SUGOでのことだった。

 このラウンドにトムスは、7M型のターボエンジンを搭載した70スープラを投入した。DR30型のニッサン・スカイラインや三菱スタリオン、さらにフォード・シエラといった強豪ライバルたちを負かし、トムスの70スープラは、いきなりのデビューウインを飾った。

 しかし、その後の70スープラは、“重さ”に苦しめられることになる。もちろん7M型エンジンが重いとか、そもそも車重が重いという問題もなくはなかっただろうが、最大の問題は、レギュレーションで排気量区分別に決められた規定車重のほうだった。

 デビューイヤーだった1987年には、排気量計算のターボ係数が1.4だったため、3.0リッターターボの70スープラは、4.2リッター扱いだったのだが、1988年にターボ係数が1.7へと変更された。

 こうなると70スープラは、5.1リッター扱いとなってしまった。当時の規定では、0.5リッターごとに車重区分が決められていたため、途端に規定重量が2段階も上になってしまったのである。

 R32GT-Rが、4.0~4.5リッターという車重区分の排気量上限に近くするために2.6リッターにしたのは有名な話だが、70スープラは、5.0リッターをちょっと超えただけなのに車重が2ランクもアップになってしまったという、なんとももっとも“おいしくない”状況へと陥ったのだ。

 そんな状況を打破すべく、エボリューションモデルである『ターボA』を導入。1988年のインターTEC戦では2位に入り、トムスの力でマシンの改良を重ねて時折光るところも見せたが、勝利には繋がらなかった。

 1990年にR32GT-Rがデビューしたその年いっぱいで70スープラは、グループAから姿を消すことになった。

 1990年には、2.5リッターの1JZ-GTEを搭載し、280psを発揮した市販車『2.5GTツインターボ/ツインターボR』が登場しているし、それをベースにした“スーパーエボ”が70スープラにもあったら……と妄想してしまうが、それも叶うことはなかった。

 この負けの雪辱は、改造範囲のもっと広い全日本GT選手権において、JZA80型にモデルチェンジしたスープラが果たすことになる。

1988年インターTECからは『ターボA』を投入。1989年にも同じくインターTECで2位に入っている(写真は別のラウンドのもの)。
1988年インターTECからは『ターボA』を投入。1989年にも同じくインターTECで2位に入っている(写真は別のラウンドのもの)。


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