4月下旬、WEC世界耐久選手権第3戦スパ・フランコルシャン6時間レースを前にしたTOYOTA GAZOO Racing WECチームのシミュレーター・セッションに、特別に立ち会うことが許された。

 WECを戦う“前線基地”でもあるドイツ・ケルンのTGR-Eに到着し、案内された先は、以前に取材したシミュレーターとは別の部屋。そう、今回は昨年末から稼働を開始した、TGR-Eが誇る最新シミュレーターでのセッションを垣間見ることとなったのだ(秘匿事項の多い最新設備ゆえ、残念ながら筐体の撮影はNG)。

 明るく綺麗なコントロールルームに入るとすでにセッションは始まっており、数人のエンジニアたちとともに平川亮の姿があった。ガラスの向こうでコクピットに座ってシミュレーターを操るのは、ブレンドン・ハートレー。その声が、スピーカーを通して部屋全体に伝わる。こちら側からは、8号車レースエンジニアのライアン・ディングル氏がマイクを通してハートレーとコミュニケーションを図り、セットアップが煮詰められていった。

 しばらくすると平川が後方の控室で準備を整え、まるでジョギングにでも出かけるかのようなTシャツ・短パンという出で立ちで、やはり同じような姿で作業にあたっていたハートレーと交代するために、コクピットへと向かった。

 出で立ちこそラフではあったが、もちろん仕事への取り組み方は100%真剣。走り出してすぐに、さまざまなコメントをシンプルかつ分かりやすい言葉でエンジニアに伝えていく。

 平川は「接地感が少ない」「ブレーキのタッチが硬く感じられる」「オーバーステアが強い」など、セクターやコーナーごとに問題点を次々と冷静に指摘。その言葉を聞くエンジニアたちも、レース本番と変わらぬ極めて真剣な表情だ。ガラスで仕切られた部屋では8人ものエンジニアとハートレーが、モニター上に映し出されるデータを目で追っていた。

【TGR WEC in Depth(2)シミュレーターの真実】
新型シミュレーターのコントロール室。後列にはシミュレーター自体の開発・調整を担うエンジニアたちが陣取り、作業を見守る。

■シミュレーターは「育てる」もの

 実際のレースと大きく異なるのは、エンジニアのうち5人がシミュレーターに関わる専門家であったこと。クルマとドライビングに関しては、ライアン氏の他にパフォーマンスエンジニア、コントロールエンジニアの合計3人が作業にあたっていた。

 ライアン氏によると、この新しいシミュレーターは昨年12月に“シェイクダウン”が行なわれ、今年2月のWEC開幕戦カタールの前からテストプログラムに投じられたという。クルマと同様、シェイクダウンの段階ではまだ完成度はそれほど高くなく、そこからデータ等のキャリブレーションを進めていくことで、実車であるGR010ハイブリッドに走行フィーリングがより近づいていくのだ。

 走り初めてすぐに平川がコメントを連発したのは、シミュレーターの感覚に馴れてしまう前に、違和感を明確にしておくためだという。

 たとえばブレーキのタッチが硬いことも、シミュレーターサイドのセッティングに原因がある可能性が疑われた。「クルマ側の問題なのか、それともシミュレーターの問題なのかを見極めることも重要です」と平川は言う。シミュレーターもやはり「生き物」であり、鍛えれば鍛えるほど精度が向上し有効性が高まる。そのために、稼働を開始してまだ半年程度のシミュレーターを使用しての作業には、多くの専門家が立ち会い微調整を重ねる必要があるのだ。

 実際、スパを前にした今回のシミュレーター作業では、その直前にスパで行なわれた実走テストから得られたデータが反映されており、コースの多くの部分で施された路面の再舗装データも盛り込まれていた。クルマの挙動の違和感がシミュレーターのキャリブレーション不足によるものなのか、クルマのセットアップによるものなのか、それとも再舗装による影響なのかを見極める能力は、エンジニアだけでなくドライバーにも求められる。

【TGR WEC in Depth(2)シミュレーターの真実】
前列には8号車エンジニアのライアン・ディングル氏を中心に、データエンジニア、コントロールエンジニアが座り、左端にはシミュレーターのパラメーター等を変更する担当者が座る。

 加えて、タイヤの仕様やデータも正しく判断し、反映させる必要がある。また、年に何度かはシミュレーターのセットアップだけを目的としたテストも行うという。「新しいシミュレーターを正しく機能させるための仕事は、ある意味クルマそのものを仕上げること以上に手がかかります」とライアン氏は笑う。

 それでも、これまで長年使ってきたシミュレーターがF1参戦時代からのものであることを考えれば、設計が新しいシミュレーターのベースパフォーマンスが遥かに高いことは間違いない。操作に対する反応の速さ、振動の出しかたなどはやはりレベルアップしているといい、これからシミュレーターが「育って」いけば、間違いなくより精度の高いセットアップやドライバートレーニングが可能になるだろう。

■レース前テストの主眼はドライバーのトレーニング

 通常、レースに向けてのシミュレーター作業は、本番前週の頭に行われることが多いようだ。できるだけレース直前で行う方が本番での天候を予想しやすく、実際のコンディションによりマッチしたセットアップやタイヤ(のデータ)でドライバーたちがテストできるためだ。

 スパに向けては3日間のシミュレーターテストが設けられ、メンバーに関しては初日は7号車と8号車の混成、取材を行った2日目は8号車、最終日の3日目は7号車といった日程が組まれていた。基本的には全ドライバーがステアリングを握るが、たとえば8号車のセバスチャン・ブエミのように、フォーミュラEのレースとスケジュールが重なってしまうようなケースもあるため、その場合は他のふたりに作業が託される。

【TGR WEC in Depth(2)シミュレーターの真実】
コントロール室前面は大きなガラスがあり、その向こうに筺体とスクリーンが備わる。ガラス上のモニターには、コクピット内の様子とともに、シミュレーター上のマシンが走るコース画像も映し出される。

 ディングル氏によれば、レース前のシミュレーターに関しては、主にクルマの開発よりもドライバーのトレーニングに重きが置かれるという。

 現在のハイパーカー規定ではF1のように空力パーツを自由に変えることができず、開発がほぼ凍結されているため、シーズン中にクルマが大きく変わることはない。もちろんサーキットに合わせたセットアップは進めるが、それは主にオフライン、つまりドライバーが乗っていない状態でのシミュレーションによって行われる。オフラインで導き出されたセットアップをシミュレーターでドライバーとエンジニアが確認し、もちろんその段階でも調整は加えるが、最後の仕上げはやはりレースウイークに入り実走行が始まってからとなる。

 ちなみに、7号車と8号車では当然レースエンジニアは異なり、それぞれセットアップの考え方や方向性も少なからず異なる。しかしシミュレーターの段階ではGR010ハイブリッドとしてベストであると考えられるひとつのベースセットアップを協力して作りあげることに注力し、実走行が始まってから各号車のドライバーの好みやコンディションに最適化させるためのアジャストを施すようだ。

 エンジン、ハイブリッドシステム、空力などハード面での開発がホモロゲーションの縛りによりほぼできない中で、制御はクルマから最大限のパフォーマンスを引き出すことが可能な重要な領域である。そのため、シミュレーター作業においても制御系のエンジニアが果たす役割は非常に大きい。

【TGR WEC in Depth(2)シミュレーターの真実】
ステアリングを平川に託して交代した後、エンジニアと話しながら作業を見守るブレンドン・ハートレー。

■“極端な状況”でアウトラップの練習も可能

 イベント前のシミュレーターは、主にドライバーのトレーニングが主であることは前に記した通り。平川は、シミュレーターが新しくなったことでGR010ハイブリッド実車との近似性が高まり、レースに向けての準備をさらに進めやすくなったと言う。

「筐体のモノコックも昨年までは前のクルマのものだったので、GR010よりもクルマがやや小さかったですし、コクピットの中の配置も異なりました。しかし、新しいモノコックとなったことで配置はすべて同じになり、アンチロールバーのコントロールも追加されたので、かなり実車に近くなりました。WECではコーナーごとにアンチロールバーを調整することも多いので、いいトレーニングにもなります」と平川。

 コールドタイヤのウォームアップや、天候の変化などによりグリップが低下した状況への対応という点でも、シミュレーターは非常に有効だという。ル・マンでは昼と夜で路面温度がかなり大きく変わり、気温の変化も大きいことからダウンフォースレベルの変化も他のレース以上に顕著だ。

「温度変化などによる、タイヤのグリップ感はかなりリアルに近かったりするので、いいトレーニングになります」と平川は続ける。

「WECではやはりアウトラップの速さが重要なので。シミュレーターではタイヤの温度をやり過ぎるくらいまで下げておいて、一番酷い状況を経験しておく。そうすれば、実車で走った時にも予想がつくので対応しやすくなります。また、今年のイモラでは降雨が予想されたので、シミュレーターでは雨を想定したデータでも走りました。ウエット路面でブレーキバランスをどうするかや、どのような挙動を示すのかなど、事前に理解を深めることができた。それもあって、実際にFPで雨の路面を走った時もすぐに対応することができました」

【TGR WEC in Depth(2)シミュレーターの真実】
従来型のシミュレーターのコクピットに座る平川。午前中から夕方までにかけて行われたセッションを終えると、F1マイアミGP帯同のためアメリカへと慌ただしく移動していった。

■『もっといいクルマづくり』につながるシミュレーター技術

 ちなみに、平川はWEC第2戦イモラでは予選アタックを担当し、7号車のニック・デ・フリースを上まわる4番手タイムを記録。チーム内で高い評価を得た。そのイモラの予選に臨むにあたっては、シミュレーターでも予選アタックを想定した走り込みにかなり時間を割いたという。

「イモラに向けては、軽タン状態でのアタック練習や、ニュータイヤの温め方の習熟に全体の8割程度の時間を使いました」と平川。イモラはどちらかといえばオーバーテイクが難しいサーキットであるため、他のレース以上に予選順位が重要になる。平川はシミュレーターで得た経験を最大限活かし、厳しいBoP(バランス・オブ・パフォーマンス=性能調整)下で見事チームの期待に応えた。

「シミュレーターはやはり非常に有効です。ただし、一日中やっていると頭の中がすごく疲れますし、クラクラしますが(笑)」

 シミュレーターテクノロジーの重要性は年々高まっており、レース車両の開発のみならず、市販車の開発過程においても寄与する割合が確実に増している。

「たとえば、シミュレーターを使っての制御システムの開発ノウハウは、市販車にも転用可能だと思います。実際に試作車を走らせる前に、シミュレーターでかなり高いレベルまでもっていくことが可能になりますので」とディングル氏。WEC参戦によるシミュレーター技術の研鑽は、トヨタが推し進める『もっといいクルマづくり』にとってもプラスに作用しているようだ。

【TGR WEC in Depth(2)シミュレーターの真実】
8号車レースエンジニアを務めるライアン・ディングル氏。日本でのレース経験も豊富で日本語も堪能だが、レース中の無線と同じく、シミュレーター中に平川と話す際は英語でコミュニケーションをとっていた。

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