日本各地のサーキット取材を終えたその足で、仕事の疲れを癒やす夜の大人の時間。サーキットのある地方には旨い酒と肴が必ずある。
autosport本誌のコラムでもお馴染みのジャーナリスト、大串信がサーキット近郊の気になる酒場、夕食処を紹介するこのブログ。今回は全日本スーパーフォーミュラ第6戦岡山、定宿にしている赤穂の夜の出来事をお伝えします。さあ、今晩はどの酒場にいきましょうか。
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取材に行く先々で様々な飲食店を利用するが、その中にはバーもある。岡山国際サーキットを取材する際に宿泊する赤穂にも、気に入ったバーがいくつかあって、ここはその一軒である。その名を「ティムショール」と言う。
ずいぶん昔、赤穂の町中でさんざん呑んでホテルへ帰る途中、「オヤ?」と見つけたのがこの店だ。なにしろ店先にローラ・アストンマーチンのピットパネルが掲げられているのだ。だが、ぼくはすでにハシゴをするには十分酔っ払い過ぎていた。
しかもぼくはあまりにもマニアックな方が経営しているいわゆる“スポーツバー”が苦手なのだ。バーで呑むときくらい、レースの話はしたくないではないか。
それなのに赤穂でローラ・アストンマーチン。これはよほどのモータースポーツマニアが経営している店なんだろうと躊躇する気持ちが生まれたこともあって、その夜ぼくは結局ドアを開けることはできなかった。
その後しばらく周辺を立ち回らなかったので入店に挑戦することもなかったのだが、たまたま赤穂で知り合った友人がこの店に連れて行ってくれて、ようやく初入店を果たしたのは確か3年くらい前のことだ。
外観はまるでモータースポーツバーみたいだが、店内は特にモータースポーツに特化しているわけではなく、アットホームな落ち着きある雰囲気である。だがよくよく見れば店のあちこちにLMP1クラスのローラ・アストンマーチン関係グッズがさりげなく飾ってある。
店頭にローラ・アストンマーチンの大きなピットパネル。店内には何やらかなり関係が深くなければ手に入らないと思われるグッズ。「これはどういうことなんだろう」と不思議な気持ちになってぼくは怖々「コレは何?」とマスターである小原行雄さんに聞いた。
すると、なんでも話は2009年に岡山国際サーキットでアジアン・ル・マン・シリーズが開催されたときにさかのぼるという。
当時アストンマーチンのワークスから委託を受けてローラ・アストンマーチンを走らせていたのはプロドライブのクルーだったはずだが、レースをするため来日した彼らは赤穂に宿泊し、夜、イッパイ呑もうと町に繰り出して、突然この店に飛び込んできたのだそうだ。
ぼくたちも海外の取材先でイッパイ呑む店を探すことがあるが、なかなか難しいものだ。ティムショールは決して目立つ場所にある店ではないのに、プロドライブの一行はよくここへ飛び込んだなあと思うけれど、世界転戦に馴れた彼らは、そういう嗅覚も優れているのだろう。
店に突然外国人の一行が訪れて、当初は何が起きているのかわからなかった小原マスターだが、徐々に意思疎通するうちに、彼らが岡山国際サーキットでレースをするためにイギリスからやってきたということがわかってきた。
そして呑みが進むうち、クルーを率いていたリーダーが「日曜日の決勝レースを見に来ないか、VIPゲストとして招待するよ」と言い出したのだという。初めての日本のバーのもてなしがよほどうれしかったのだろう。
思いがけない招待を受けた小原マスターが日曜日、おそるおそる岡山国際サーキットへ出かけると、アストンマーチンからまさにVIP待遇の丁重なもてなしを受けることになった。
しかも1日レースを堪能した結果、小原マスターの目の前でローラ・アストンマーチンは優勝を遂げたのである。なんとできすぎた流れであることか。レースが終わって帰ろうとした小原マスターに優勝したばかりのチーム監督が「記念にこれ、もっていけ」とピットから剥がして持たせてくれたのが、今も店頭を飾るピットパネルなのである。
レースを終えたクルーは撤収を終えた夜、その日勝ち取ったシャンペンボトルを手土産にまた店を訪れてくれたという。プロドライブのクルーにとっては素晴らしい週末を締めくくるための店はティムショールしかなかったのだろう。
それまでモータースポーツに特別な興味を持っていなかった小原マスターではあるが、プロドライブとの交流は本当に楽しい思い出になったようで、今でも店内には様々な形でプロドライブが残していったグッズが飾られている。
そもそも店頭に掲げられているローラ・アストンマーチンのピットパネルは、ティムショールの店名を示す看板よりもはるかに目立つのだ。
小原マスターとプロドライブの間に、単なる店主と客の関係を超えた思いが交わされ、小原マスターがプロドライブとの関係やサーキットでの経験に敬意を抱いて、それを今でも保ち続けていることは、とてもうらやましいことだし、レースに関わる身としては、うれしいことでもある。
だからといって、ティムショールは断じて“モータースポーツバー”ではない。そこにあるローラ・アストンマーチンの痕跡は、小原マスターとプロドライブの間に生まれた敬意の記録であって、モータースポーツマニアの熱意が収集したコレクションとは少々異なるものだ。
ティムショールは、ほじくればモータースポーツの香りがするけれど、ほじくらなければ何も出てこない、気がつかなかったら何も気がつかないで終わるスタンダードなバーであり続けている。それがぼくにとってのティムショールの魅力なのである。