ツインリンクもてぎは今年で開場20周年。その歴史に深く関わったドライバー、チーム首脳たちがもてぎのエピソードや思い出を語る連載企画、第14回はオートバックス・レーシング・チーム・アグリ(ARTA)を率いる鈴木亜久里に話を聞く。
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「最初は、『とんでもなく凄いものつくったなあ』と思いましたよ。だって、オーバルコース(スーパースピードウェイ)と普通のサーキット(ロードコース)が別個に両方あるんだからね。他にも小さいダートオーバルとかがあって……。まだ日本にはオーバルレースの文化がほとんどなかったような頃だから、それを根付かせていくのは大変だろうな、とも思いましたね」
世界でも類を見ない壮大なモータースポーツ施設の誕生。それは、F1の表彰台に日本人選手として初めて立つという偉業を達成するなどしてきた国際派の亜久里をもってしても、大きな驚きであった。
また、今でこそ佐藤琢磨のインディ500初優勝が華々しく報道されるくらいの土壌が日本にもあるが、20年前は今と天地の差があったのも事実。その意味でも、ツインリンクもてぎの貢献は大きい(琢磨はF1時代、亜久里が率いたスーパーアグリF1チームでも活躍)。
そして、当時現役だった亜久里は、誕生したばかりのツインリンクもてぎのオーバルで最初に開催されたビッグレースで優勝を飾ることになる。
1997年11月に開催された全日本GT選手権(現スーパーGT)のオールスター戦。その舞台はツインリンクもてぎのオーバル、パイロンによるシケインを設置したコースでの戦いだった。
GT500クラスはレース1、レース2ともにZEXELスカイラインの亜久里 & エリック・コマスが制し、総合優勝を成し遂げた。
「目が回るだろうなあと思った。もちろんそれは冗談だけど(笑)、当時のGTの(ロードコース用)タイヤはオーバルでの縦Gを想定してつくられてはいなかったから、速度を落とす目的でターン手前にシケインが設置されたんだよね。(レース内容は)正直もう、そんなによく覚えてはいない。優勝したんだから、当然、気分は良かったですよ」