ついに今週末、11月2~3日の最終戦もてぎラウンドを残すのみとなった2019年のスーパーGT。そのGT300クラスの名門として、今季も『TOYOTA GR SPORT PRIUS PHV apr GT』を走らせているのが金曽裕人代表率いるaprだ。彼らはFIA-GT3マシンが隆盛を極めるいまもオリジナルマシンでの参戦にこだわっている。そこには彼らの活動の基盤となった1台のマシンの存在があった。その名をガライヤという。
ここでは、現在発売中の雑誌『レーシングオンNo.503 GT300特集号』に収められている記事から一部を抜粋してお届けする。実はガライヤ、あの流麗なボディの裏には隠れた苦悩を抱えていたというのだ――。
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2003年から2012年まで、途中1年間の休止期間はあるものの、JGTC全日本GT選手権(現スーパーGT)のGT300クラスを盛り上げた1台がARTAガライヤ。オートバックスの100%子会社、ASL(オートバックス・スポーツカー研究所)が市販を予定して開発した2シーターのライトウエイトスポーツカーがそのベースだ。残念ながら市販車に関しては最終的に一般ユーザーの手にわたることなくプロジェクトが終了したものの、レース界ではその名を歴史に刻んだ。
ガライヤはどのように開発され、進化してきたのか。設計・開発を担ってきたaprの金曽裕人が語る。
「当時のオートバックスの住野公一社長が『オートバックスとしてクルマを作ります』となった時に、トミーカイラと技術提携してASLを立ち上げたんです。そしてトミーカイラZZに上っぱりをかけたのが、2001年末に代官山で発表されたガライヤの市販車です」
「それで当時ウチのドライバーだった新田守男と高木真一に頼んでクルマを評価してもらったんですが、まずその市販車の重量が重すぎたんですよね」
「でも、それはもともとオープンカーの軽快なクルマとして設計されたZZの上にボディを載せたために起こったこと。そこで、それに合わせてジオメトリーやディメンションの計算をし直して、どんどん設計変更していったら良くなっていったんです。実際にオートバックスの役員や社員の方がそのクルマに乗って『これはすごいね、マジックだね』と言ってくださいました」
「そうしたら、僕らが当時(トヨタ)MR‐Sでチャンピオンを獲ったということもあって、住野社長らから『ガライヤはオートバックスのシンボルマークだ。これでレースをできないか』という話が突然出てきたんです。でもその時の市販のガライヤって、小さすぎて……。だからまずは、エボモデルを一般市販車として作りましょう、と」
エボモデルを作るということは、つまりそのクルマでホモロゲーションを取得し、それをベースにレーシングカーを作るという意味だ。それを先行して行なっていたのが、R&Dスポーツのヴィーマックだった。
「ヴィーマックもベースのクルマは小さかったんですよね。で、『なんでこれで、このレーシングカーにできんねん』といろいろ聞いたんです。彼らはエボモデルを1台だけ作って、イギリスでホモロゲを取っていた。JAF日本自動車連盟のGTのレギュレーションって基本的には市販車がないとダメなんですよ」
「そこで普通のモデルを1台持ってきて、それをぶった切ってエボモデルを作ったんです。並行してレースカーも作っていて、実走テストでも問題がなかったからイギリスに送ってホモロゲを取ったんです。大きな声では言えないですけど、イギリスってクルマだけじゃなく農機具のホモロゲもあって。農機具の方に持ち込んで取ったんですよ。これヴィーマックと同じです(笑)。とにかくレースカーを作るために長いガライヤが欲しかったんです」