更新日: 2021.04.13 14:30
訃報:希代の“レース屋”にして“職人”。つちやエンジニアリング初代代表・土屋春雄さん亡くなる
スーパーGT GT300クラスにHOPPY team TSUCHIYAとして参戦するつちやエンジニアリングは4月13日、代表である土屋武士の名で訃報を出した。1971年につちやエンジニアリングを興し、名メカニック、チューナー、レーシングチーム監督として日本のモータースポーツにその名を残した土屋春雄さんが4月11日11時13分亡くなった。享年76。
土屋春雄さんは1945年群馬県出身。バイクに熱中し、スズキのレーシングチームである城北ライダースに加わり、1968年に東名自動車に移籍。エンジンを中心に担当し、1971年に独立。レーシングガレージである『つちやエンジニアリング』を立ち上げた。車体からエンジンまでレーシングカーづくりのすべてを自ら手掛け、チーム代表でありながら、エンジンチューナー、エンジニア、ファブリケーター、メカニックまで仕事をこなした。
以降、マイナーツーリングでアドバンカラーとともに栄光を残してきたつちやエンジニアリングは、ワークスチームに対抗する強力なプライベーターとして大活躍をみせる。1985年からスタートしたグループA規定のJTC全日本ツーリングカー選手権では無限やレーシングプロジェクトバンドウと激闘を展開。1994年に始まったJTCC全日本ツーリングカー選手権でもその戦いは続いた。
1996年からは、土屋春雄さんの知恵と技術で仕立て上げたトヨタMR2で、スーパーGTの前身であるJGTC全日本GT選手権に参戦を開始した。1998年には、鈴木恵一/舘信吾のコンビで、シリーズ6戦中5勝という今も破られぬ圧倒的な成績でチャンピオンを獲得。翌年はアペックスと組み、新田守男/高木真一組で参戦。新田がチャンピオンを得るなど、JGTC最強チームのひとつとして君臨した。
2000年からはGT500クラスに移り、トヨタ・スープラ/レクサスSC430で参戦を続け、2005年には第1戦岡山で織戸学/ドミニク・シュワガーのコンビで優勝を飾るも、不況のあおりを受け、2008年限りで活動を終えた。
しかしその“レース屋”としての魂は、ドライバーとして、エンジニアとして、メカニックとして父の姿を見続けた息子の土屋武士に引き継がれ、2014年、3年計画でスタートした復帰計画は、“職人を育てる”というテーマを掲げ2015年に86 MCの参戦、2016年に武士のドライバーとしての最後のレースでのGT300チャンピオン獲得という最高の結果で結実。春雄さんはマザーシャシーの開発に尽力、監督を務めて武士を支え、チャンピオン獲得を決めたときの父子の涙は大きな感動を呼んだ。
つちやエンジニアリングの活動休止期間中は、かつてのライバルたちに招聘され、GTアソシエイションでも技術部門に携わるなど、日本のモータースポーツ界を支えつづけてきた。また、その薫陶を受けたドライバー、メカニック、エンジニアは今も日本のトップで活躍し続けている。
2016年にGT300チャンピオンを獲得したわずか10日後、口腔底がんで入院し、以降は回復するたびにサーキットや神奈川県藤沢市のガレージに姿をみせていたものの、2020年暮れから、長くないことが告げられていたという。
折しも、2021年はつちやエンジニアリング創業50周年の年。武士はそれを記念し、オートスポーツ特別編集 SUPER GT file 2021 Special Edition『つちやエンジニアリング冒険記』を刊行し、病床に伏せる父に見せたところ、嬉しそうな笑顔をみせたという。
「今日(4月11日)、自宅にて家族に見守られながら父は他界しました。病状の悪化によって、昨年の暮れからこうなることは分かっていましたので、僕自身は父との時間をとることができました。しかしレースへの準備もあり、このことを公にはできませんでした。関係者の皆さまにはこの場を借りてお詫び致します」と武士はコメントした。
「スーパーGT第1戦岡山に出かける際にも、『がんばって待っていなくていいよ』と声をかけたのですが、自宅で待っていることができずに父がレースを観に岡山に来てしまったようです。それが(山下)健太と坪井(翔)の素晴らしいバトルに繋がり(編注:ふたりは過去に25号車をドライブ)、25号車も244号車もしっかりいいレースをしてくれたことに繋がったと思います。父からのギフトだったかもしれません」
「不思議と父がいなくなった気がせず、むしろずっとそばにいるようで手が抜けません。これまでどおり、ひとつひとつていねいに積み上げていかなければいけないと改めて思いました。父は生涯現役を貫き、最後までレーシングカーをいじっていました。幸せな人生だったと思いますし、それを関わってくださった皆さんに本当に感謝したいと思います」
「遺言は『何があってもレースに穴をあけるな』でした。チェッカーを受けるまではチームスタッフにも父が亡くなったことは伏せてレースをしました。スタッフに支えられて遺言をまっとうできました」
土屋春雄さんが亡くなった4月11日は、スーパーGT第1戦岡山の決勝日。その日、予選21番手と沈んでいたHOPPY Porscheは、混戦を追い上げ7位入賞、たかのこの湯 GR Supra GTも5位入賞を果たしている。
希代の“レース屋”にして、最強のプライベーターとして、日本のモータースポーツ史にその歴史を刻んできた職人が亡くなった。サーキットでの戦う表情と、柔らかい笑顔が忘れられない。
なお、葬儀は近親者のみで執り行ったという。土屋春雄氏の冥福を心から祈りたい。