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スーパーGT ニュース

投稿日: 2022.04.01 20:52
更新日: 2022.04.01 20:57

夢、また夢をありがとう。偉大なる国さんへ、チーム・タイサン千葉泰常代表からの追悼メッセージ

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スーパーGT | 夢、また夢をありがとう。偉大なる国さんへ、チーム・タイサン千葉泰常代表からの追悼メッセージ

 3月16日、その訃報が報された高橋国光さん。二輪、四輪の“レーサー”として世界、そして日本で活躍してきた国さんには、文字どおり世界中から弔意が寄せられた。そんななか筆者のもとに、1980年代には全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権でともに4回のチャンピオンを獲得し、1990年代にはグループAでR32スカイラインGT-Rをともに走らせてきた、チーム・タイサンの千葉泰常代表から追悼のメールが寄せられた。タイサンの関係各位に送られたものだが、掲載の許可を求めたところ快諾をいただいたので、ご紹介したい。

 1960年代のロードレース世界選手権での日本人初優勝、四輪転向後のスカイラインGT-Rでの50勝目、また1995年のル・マン24時間でのクラス優勝、そしてチーム総監督としてのスーパーGTチャンピオンと、国さんの輝かしい成績は数え切れないほどだ。

 そんな国さんが1980年代、最強の存在だったのが全日本耐久選手権/全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権。横浜ゴムのスポーツブランド、アドバンのブラックとレッドのカラーリングをまとったポルシェ956/962Cで、国さんは1985〜87年、1989年と4回のチャンピオンを獲得。ともに戦ってきたのが、チーム・タイサン千葉泰常代表だった。

 国さんからの訃報の後、スーパーGTでしばしば取材をしていた筆者のもとに千葉代表から追悼メッセージが寄せられた。千葉代表の熱い夢、そして国さんへの思いが記されていることから、転載をお願いしたところ快諾をいただいた。掲載に向けわずかに文章に手直しは加えているご了承いただければ幸いだ。

* * * * *

偉大なる国さん

1950年代から1960年代にかけて、ホンダのワークスライダーとして二輪世界グランプリで活躍され、ホッケンハイムでは日本人初の優勝者に輝かれました。

1964年から四輪へ。ニッサンのワークス全盛期に、国さんは連戦連勝のトップドライバーでした。

私は学生時代、モータースポーツをかじりたくて、FISCO(富士スピードウェイ)のトンネルで、パドック入口のガードマンをしていました。レースの結果など分からない、裏方役でした。

冷たい雨のなかでパスをチェックしましたが、数多くのワークスドライバーの中で、ただひとり窓を開け『ご苦労さま! またね!』と声をかけてくれ、さらにはユニフォームの名札を見て『千葉ちゃん、ありがとう〜!』と言ってくれた国さんにシビれました。

よし! いつか自分でチームをもって、国さんと一緒に走り勝負を、そしてチャンピオンを! と夢見たものでした。

アメリカ、そしてヨーロッパと、世界中を電磁ポンプの開発や販促のために駆け巡り、週末はどこかのサーキットのレースを訪れ、富士スピードウェイの常務やJAFの部長の紹介状を持って訪問しました。

NASCARのビル・フランスオーナーにも会え、シカゴではポルシェのユルゲン・バルトにも会えて、どうしたら世界中のモータースポーツファミリーの仲間入りができるのかを学んで、少しずつ国さんと一緒にレースができる夢、また夢をふくまらせました。

ル・マン24時間のバスツアーにも何度か参加しました。土曜日の朝8時前、パリのエッフェル塔下集合だったのでしたが、さらに夢を刻んだ楽しい時でした。

1986年、コースを見つめる国さん。奥が千葉代表
1986年、コースを見つめる国さん。奥が千葉代表

1983年、ついにその時がやってきました! 『WEC in JAPAN』です。横浜ゴム水野雅男部長からうれしいオファーをいただき、『国さん、アドバンとポルシェでやろう!』と声をかけました。ポルシェ956をレンタルで契約し、イギリスはドニントンパークにタイヤを持ち込み、テストを重ね富士でデビューしましたが、1年目は散々でした。

よし。自分でクルマをもって参戦しよう。国さんと健ちゃん(高橋健二)と。両親も会社も応援してくれました。アドバンタイヤの開発も順調に進み、1984年6月3日、富士でデビューウイン! ちょうど私の娘、美苗(※編注:2002年ミス・ユニバース・ジャパン)の7歳のハッピーバースデーの記念すべき日に、前日富士の野に咲く花で作った月桂冠をレース前、国さんにかけたことが現実になりました。

そして2年目のWECでは、テストで快調だったものの、1週間前のテスト中、300Rで空を飛んでしまいます。残念! 無念! しかし禍を転じて福となす。ポルシェ962Cの新車となり、バイザッハのポルシェから戻ってきました。

 グループCカー時代の燃費規制は、オイルショックのたびに厳しくなる燃料省エネのための電磁ポンプ開発そのものでした。楽しいものづくりとともに、ダブル高橋コンビによるレースの連勝、そして3年連続チャンピオンと順調に進みました。アドバン・タイサン・ポルシェ962の名は世界中に広がりました! 本当に嬉しかった。

1988年、スウェーデンからの助っ人、スタンレー・ディケンズ(フロム・エーレーシングに加入)に負けてならぬと考えて、1989年にスタンレーをポルシェ962とBMW(※編注:JTC参戦のアドバン・アルファM3)でドライブさせるべく2カテゴリーに招聘。見事国さんとのコンビ最終戦、鈴鹿での優勝でチャンピオンとなった! 国さん50勝目。タイサン・ポルシェは10勝目を達成。あわせて、BMWでは健ちゃんとディケンズがチャンピオンで、ダブルタイトルでした!

1985年、鈴鹿でチャンピオンを決めた高橋国光/高橋健二組
1985年、鈴鹿でチャンピオンを決めた高橋国光/高橋健二組
1989年JSPC第2戦 高橋国光駆るアドバン・アルファ・ポルシェ
1989年JSPC第2戦 高橋国光駆るアドバン・アルファ・ポルシェ
千葉泰常代表から送られた、娘美苗さんと国さんとの思い出の写真
千葉泰常代表から送られた、娘美苗さんと国さんとの思い出の写真

残念ながら、その後横浜ゴムさんはグループC活動からフォーミュラへ。タイサン・ポルシェ、タイサン・BMWはプライベートとなり、国産勢にチャンピオンの座をゆずることになってしまいました。

しかし1991年、少年時代から国さんの走りにヘアピンでかじりついて憧れていた、“第2の国さん”、国さん大好きドライバーがやってきました! R32スカイラインGT-Rでの高橋健二/土屋圭市コンビの出現です! プライベートは供給されたマップが異なり、3位が精一杯。やむなくわずか1年で自らのチームを諦めて、新設された『チーム国光』のスポンサーに。国さん、土屋圭市のコンビで戦い、そして2年目の第2戦オートポリスで唯一の1クラス勝利を飾りました。

そして1994年、全日本GT選手権が始まり、初年度から別々のチームで仲良く競い合いました。

ご一緒した9年間。赤と黒のタイサン・ポルシェで実に12勝。まさに夢、また夢の楽しいレース、そしてその優しい人柄、人間性。感謝に堪えません!

昨年8月、私は網膜剥離の手術で入院中。国さんも何処かの病院で外出禁止令中。お送りしたチーム・タイサンの100勝記念Tシャツが返送されてきたため電話をかけましたが、そこで話した時にも、まだまだ夢を話し合ったばかり。

私の夢は、原点に戻りサイズダウンして、富士スピードウェイで毎回150台もの車両と500名のドライバーが集まる、K4GPに出ること。いまいちばん楽しいレースでもあり、厳しい燃費規制もあるK4仕様の962Cを作り、国さんがスタートドライバーで2022年夏の富士での10時間耐久レースに参戦することでした。

もちろん、国さんはふたつ返事でオーケー。それまでにお互い早く治さないと……が最後のふたりの夢でした。

3月14日、ひさびさに国さんの二輪時代の大親友の奥様、息子さんとランチをご一緒した際に、国さんに電話をしましたが、無返答。どうされているのか……? 今度、そのK4仕様962Cの話をしようとした矢先の、3月16日の訃報でした。

国さん、本当にたくさんの夢、また夢をありがとうございました。

あなたに憧れ、たくさんのあなたのお名前『国光』を頂いた後輩たちとともに、次なる勝利を目指します。

どうぞ、その笑顔のままゆっくりとお休み下さい。ありがとうございました。

感謝

合掌

グループAで争われたJTCのなかでも屈指の人気のマシンとなった高橋国光/土屋圭市組STPタイサンGT-R
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