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F1 ニュース

投稿日: 2022.10.13 18:30

セナとマクラーレンMP4/6をもっとも近くで見ていた男、ジェームス・ロビンソンが語る1991年の栄光と苦しみ

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F1 | セナとマクラーレンMP4/6をもっとも近くで見ていた男、ジェームス・ロビンソンが語る1991年の栄光と苦しみ

──イモラでの決勝は、ウエットコンディションでのスタートとなり、フォーメーションアップラップで、アラン・プロストがスピンしてしまいました。セナにとってはかなり楽な展開でしたね。
「リラックスできるようになっていたように思う。ブラジルからヨーロッパに戻り、気分も高揚していた。ブラジルから戻る際、一緒にコンコルドに乗せてくれたんだ。かなり驚いたが、ちょっとしたご褒美だった」

──モナコでは、ティップトップバーの外で、あなたと会ったのを覚えています。あの週末は、とにかく他を寄せつけず、とても楽なレースのひとつだったのではありませんか。
「それまで経験した中で、あのレースほどアイルトンが集中している姿を見たことがなかった。マシンをどのように仕上げたのか、チーム、あるいは私がそう決断した理由など、私からありとあらゆる情報を得ようとしてきた。どのような過程を経てそのセットアップに仕上げたのか? 前年はどんなことが起きたのか? 1990年に私は彼のエンジニアを担当していなかったので、記録を掘り起こさなければならなかった」

「さらにアイルトンはそれ以前のことも知りたがった。結局、3、4年前までさかのぼってチーム内からできる限り多くの情報を集めようとした。当然、書き記されているものもあれば、口頭で伝えられただけのものもあった。アイルトンが一番気にしていたのは、3年前にどうして6速ではなく、5速のギヤボックスで走ったのかということだった」

「シミュレーションなどをする前に、どのギヤを使い、1ラップあたりのギヤチェンジの回数がどれだけ少なかったのか、それは効果的だったのかということを、追求したがっていた。最後はホンダのスタッフを交えて、エンジンのトルクについても話し合った。おそらくあれほど熱心に情報収集に取り組んだ週末は、それまでなかったと思う。彼はあのレースで勝つ方法を見いだすのに役立つと考えたのだろう」

──その結果、通常のギヤボックスのままにしたのですね。
「もちろん、ショートレシオにしたが、6速ギヤボックスのままにした。それでも、アイルトンは過去数年間のレースはどうだったのかを知りたがった。集めた情報から、どのような展開で、どうしてそうなったのか、理由を説明してくれと言われたよ」

──カナダから、少し勢いが止まります。そこから5戦は計画どおりにことが運ばなかった。モントリオールでは電気系統に問題があったのですか。
「オルタネーターのトラブルだったと思う」

──メキシコGPでは、フリー走行で横転した印象的なクラッシュがありました。あのアクシデントについて、なにか覚えていますか。
「最終コーナーにひどいバンプがあった。何年も前から他のマシンも同様の問題に悩まされていたのを覚えている」

「年は忘れたが、アクティブカーを駆ったナイジェルが、フランク・ダーニーに詰め寄ってこう言っていたことがある。『フランク、タイヤが宙に浮いていたぞ』と。すると、フランクも言い返す、『ぜったいにあり得ない。私はこのクルマのこともソフトウェアのことも熟知している』とね。翌日、ナイジェルは4輪が宙に浮き、マシンの下に空間ができている写真を持ってきた。アイルトンのクラッシュは恐ろしいものだったが、あのコーナーをうまくこなせないと、ストレートでスピードに乗らないんだよ」

──結局3位でフィニッシュし、フランスGPでも3位でした。あの頃は、少し速さが足りなかったような感じが……。
「常に速さは充分とは言えなかった。ウイリアムズのFW14の方が、全体的にまとまっていた。とはいえ、彼らも当初からギヤボックスに問題を抱えていて、その解決にかなりの時間を費やした。ウイリアムズが調子を取り戻し始めたころ、私たちは充分に開発し切れていないマシンのままで、取り残された感じだった。個々の故障やトラブルは解決していたが、根本的な改善がなされていなかった」

アイルトン・セナ(ホンダ・マールボロ・マクラーレン)
アイルトン・セナ(ホンダ・マールボロ・マクラーレン)

──シルバーストンでは、マンセルのマシンに乗せてもらってピットに戻ってきたのが、強く印象に残っています。スタート時の燃料搭載量が充分でなかったというわけではなく、蒸発したせいですか。
「違う。私がアイルトンを担当した3年間で、2回、燃料切れになったレースがあった。私たちは常に燃料搭載量に関して冒険をしなかったし、アイルトン自身、メーターの数値は実際よりも低く見積もるようにしていた。ただ、トップに立っているレースで3分の2を過ぎたら、燃料消費を抑えられることが分かっていた」

「また、私たちは保守的であり、ホンダは安全策として、メーターに0.5%つけ加えていて、メカニックが念のため1リットル多く燃料を入れていることも知っていた。だから、タンクが空になるまでドライブし続けたのだ」

──蒸発などによるメカニカルトラブルではなかったのですね。
「違う。タンクが空だった」

──それについてレース後に話し合ったのですか。
「アイルトンは『分かってる、分かってる』と言っていた。明らかにこのときは、マージンだと思っていたものが逆方向に働いてしまった」

──燃料の開発は、燃費に影響を及ぼしたのですか。
「当然、シェルは燃料の開発を行なっていた。ゲルハルトが部屋に入ってきて、こう言った。『フェラーリでも同じことをしていた。とても効果がある』と。そこにいた誰もが『バカを言うな、そんなこと不可能だ。燃料は燃料にすぎない』と、反論した。アイルトンやロンはテーブルを叩いて、憤慨していた。その後、シェルは新しい燃料を開発した。最初の数戦ではかなり高価だった。1リットル缶に入っていて予選用だったが、とても貴重だったので、『値段を聞いてはいけない』という代物だった」

──燃料が変わったことで、燃費に影響を与えたわけですね。
「そのとおり。燃料の濃度の問題だ。実験で実証され、メーターを修正した。セッションを終えるごとに、燃料を空にして、メーターを修正した」

──ドイツGPでも同じことが起きました。これも単なるガス欠ですか。
「そうだ。2レース連続で燃料を使い果たしてしまった。さっきも言ったとおり、トップに立って、レースをコントロールしていれば、大丈夫だとアイルトンは信じていた。なんの問題もなく20%抑えることができた。レースの60%をリードし、すぐにペースを落としてクルーズできるという、彼の計算を外れる状況になると、もはや燃費を抑えることができない」

■2連勝の要因

──開幕から4連勝というすばらしいスタートを切ったあと、シーズン中盤にすべての貯金がなくなってしまった感じでした。チーム内の雰囲気はどうだったのでしょう。
「私は派手にテーブルを叩き、主張した。『何か手を打って、我々は前進しなければならない。マシンの問題を解決して、開発を進めるしかない』と。すると、アンリが立ち上がってこう言ったのだ。『君は何を言っているのか分かっているのか、ジェームス。このマシンをデザインしたのは私だ。完璧なんだよ』と。このとき、私たちはどうしようもない状況にいると悟った」

「それがアンリの考え方で、フェラーリでも同じことをやっていた。彼やジョン・バーナードが、どれほど本気でそう考えていたのか、私には分からない。アンリ自身が理解できておらずマシンを改良することを恐れていたのか、本当に完璧だと信じていたのかのいずれかだ。開幕から4連勝したら、自分は間違っていないと信じ込んでもおかしくないと思う」

第3戦サンマリノGPで早くも3勝目を挙げ、拳を振り上げるアイルトン・セナ
第3戦サンマリノGPで早くも3勝目を挙げ、拳を振り上げるアイルトン・セナ

──ところが、チームは足踏みしていたわけではなかったのですね。ハンガリーGPでは軽量化されたシャシーが投入され、ホンダはかなり大規模なアップデートを施しました。
「ホンダのアップグレードは一度限りではなかった。ホンダとの仕事に対するアイルトンの意気込みは、他のドライバーとはまるで違っていた。それに彼の熱意が、とてもうまくホンダのやる気を引き出していた。エンジンについて、これで充分だということはなく、常に何らかの問題点があり、絶えず改良の余地があった」

「ホンダのスタッフはアイルトンの意見に耳を傾け、毎週のように何かしら新しいものを持ち込んできた。『ミスター・セナ、この部分で5馬力アップさせました』といった具合にね。ドイツGPがその典型的な例だった。テスト用にホンダは新しい軽量ブロックを持ち込んだ。従来のものより3kg軽く、ピストンなども新しくなっていた。そのエンジンをテストしたら、とてもよくなっていて、15馬力くらいアップした。テストが終わった後、エンジンを外してガレージに戻したところ、ブロックにヒビが入っているのが見つかった。ホンダはその問題を解決すべく、すぐに日本で新しいブロックを製作し、レースに新しいそれを間に合わせてみせた」

「ダイナモメーター上でしか動かしたことがないものだった。3kgとはいかないまでも、1.7kg程度は軽量化されていただろう。とにかく、ホンダは驚異的な速さで対応した。そういったことが許されない今日では考えられないことだ。エンジンを設計し、レース用に何基も製造し、問題点を見いだし、再設計し、鋳造し、組み立て、レースに間に合わせる。こうした一連のホンダの対応は信じられないくらい素晴らしかった」

──そのハンガリーGPでは、ポール・トゥ・ウィンを飾り、次のベルギーGPではふたたびギヤボックスのトラブルに見舞われながらも、ポールポジションから優勝を手にしました。ふたたび軌道に乗り始めて、2連勝した要因はなんだったのでしょうか。
「ブラジルGPのレース後、アイルトンはファクトリーにやってきた。おそらくシルバーストンテストの前だったと思う。そして、ギヤボックスの作業場で、ニール・トランドルと一緒に半日かけて、ブラジルGPでギヤボックスに何が起きたのかを解明しようとした。ベルギーGPでギヤボックスのトラブルに見舞われた時、アイルトンはどのギヤがどのレール上にあるのかを把握していた。2速と4速がひとつのレールの上にあるとか、そんな感じだ。ギヤボックスに問題が生じた時、どのギヤを使わないようにすればいいのかが、彼には分かっていたんだ。ギヤボックスの作業場で、ニールが見せてくれたものを覚えていたからだね」

──つまり2速に問題があれば、4速も入れない方がいいということですね。
「そうだ。それに、オルタネーターにも問題があったと思う」

──イタリアGPで2位、続くポルトガルGPでも2位でしたが、特にエキサイティングな展開だったとは思いませんでした。ただ、またポイントを稼げず、初めてのバルセロナでのスペインGPは5位でしたね。
「唯一覚えているのが、タイヤの使い方が問題だったということだ。初めてのコースだったので、左フロントを活かそうとして、コンパウンドをミックスしてみた。当時はそれが可能だった」

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