【追悼企画】
4月11日に亡くなったつちやエンジニアリング創業者土屋春雄氏と、春雄氏の長男で現つちやエンジニアリング代表である土屋武士との間のストーリー。クライマックスはやはり2016年のスーパーGT GT300クラスチャンピオン獲得であろう。
父の背中を追い成長する息子……、そうした一般的図式にこの親子はあてはまらない。ことあるごとに対立して、両者譲らず、ときには一晩中議論することもあったようだ。もちろん父を尊敬しているものの頑固さも父親譲りで、納得できなければ自分の考えは曲げない。
最初にもっと鋭く対立したのは武士の高校卒業後の進路についてだ。大学への進学を勧める父とレーシングドライバーとしての道を歩むために進学を拒絶する息子。議論は平行線をたどり、ついに武士は家出、知り合いの家を転々として、最後は当時チームのドライバーであった鈴木恵一の家に転がり込み、自宅に連れ戻された。
結局、父が折れて、武士は翌年からつちやエンジニアリングでメカニックとして働きながらレーシングドライバーを目指すことになった。
2015年にはGT300クラスでJAF-GTに内包されるかたちの新規格として導入されたマザーシャシー『86MC』を購入。2008年いっぱいで活動休止していたつちやエンジニアリングとしての活動を再開する際にも、親子は対立した。
データを積み重ねて着実なステップアップを目指したい武士に対して、選手権を狙えない1年目であることを逆手に取って、開発に重点を置きたい春雄氏。両者の方針は相容れなかった。
ドライバーでありトラックエンジニアでもある武士からするとポテンシャルを引き出すことが先決。クルマをゼロからつくる開発者の立場である春雄氏にとってはポテンシャルを引き出すことよりも、まずポテンシャル自体を引き上げることが重要だった。このときも、結局は武士の方針が優先されることになった。
改めて春雄氏のキャリアを振り返ってみると、最初に働き出した東名自動車時代でも会社自体が4輪の開発、メンテナンス業務を担当するのが初めてといった黎明期であり、新人の春雄氏はその実力から早くもチーフ的な扱いで仕事の方針を決める立場であった。東名自動車を退社後、自分でつちやエンジニアリングを興した1971年以降は、当然すべての方針も選択も春雄氏が決めて、自身のやりたいように仕事をしていた。
ある意味では、仕事で初めて自分以外の人間の方針に従う経験をしたのが2015年だったのだ。マザーシャシーは当初マイナートラブルに見舞われて、サスペンションアームの作り直しなどが必要となり、春雄氏と同様に長年さまざまなマシンづくりに従事してきたMYZ今西豊氏の力があってこそ、走ることができるようになった。
だが、春雄氏は生前、マザーシャシーについて「あれは武士のクルマだ」とよく言っていた。つくってはいるものの、開発方針は武士が決めていたからそう表現していたのだろう。レースキャリアにおいて春雄氏は初めてサポートする側に回った。
「あれがあったから優勝でチャンピオンを決められた。親父がいたからこそだった」と当時を振り返る武士。
“あれ”とは2016年スーパーGT最終戦もてぎにおけるピットでの出来事だ。
このレースを最後にスーパーGTの実戦に参加するドライバーとしての現役引退を決めていた武士は前半スティントを担当。パワーに勝るFIA-GT3勢に対抗する狙いでタイヤ無交換作戦を採っていたため、タイヤ内圧の上がらないレース序盤のペースを抑えた。その結果、予選6番手からズルズルと抜かれる展開で順位を10番手にまで落としてしまう。順位を守らずにひたすらタイヤを守った。
このままの順位ではチャンピオンは獲得できない。ルーティンピットでタイヤ交換を省略することで時間を稼ぎ、ポジションを回復する作戦だ。それだけにピット滞留時間の短縮は重要なミッションである。しかし、このピットであえて春雄氏はリヤタイヤの内圧調整に2秒間を費やす選択をした。最終戦はレース距離が250kmで通常の300kmレースよりも給油時間は短く、ピットでの2秒は貴重だ。
前半スティントで武士は無線を通じて「これ以上ペースを上げられない」とピットに伝えていた。この言葉だけで春雄氏は、タイヤ内圧が上がってしまったためにペースが上げられないのだと判断。さらに後半スティントを担当する松井孝允のドライビングでは武士よりもリヤタイヤの内圧が上がり気味になることも見越して2秒分タイヤ内圧を抜いたのだ。走っている武士にはあえてその作業追加について相談しなかった。
結果、松井はタイヤ無交換ながら後半にペースアップを果たし、5位以上でタイトル確定の条件があったものの、それに縛られることなく順位を上げてトップチェッカーを受けた。タイヤをどう守るかだけを考えて走った息子の武士と、タイヤをどう活かすかを考えた春雄氏。言葉を交わすことなくふたりの考えは共鳴して大きな成果を生み、劇的な結末を迎えたのだった。