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F1 ニュース

投稿日: 2020.10.16 09:34
更新日: 2020.10.20 10:53

ティレル020の真実が見えてくる『GP Car Story Vol.33 Tyrrell 020』は全国書店やインターネット通販サイトで好評発売中

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F1 | ティレル020の真実が見えてくる『GP Car Story Vol.33 Tyrrell 020』は全国書店やインターネット通販サイトで好評発売中

 『GP Car Story Vol.33 Tyrrell 020』は10月7日より発売中。今号の目玉は、中嶋 悟と森脇基恭の史上初の誌面対談や、ジャン–クロード・ミジョー、ジョージ・ライトンの技術陣や、白井裕、坂井典次のホンダV10サイドのインタビューを掲載しています。

 また、中嶋以外に『020』でF1を戦ったことのある日本人ドライバー片山右京の声も収録。恒例のバリエーション、ディテールファイルといったマシンの魅力をお伝えする企画も満載です。

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 1991年、日本人初のフルタイムF1ドライバーである中嶋悟にとって5年目のシーズン。中嶋はシーズン前からこの年限りでの引退を決意していた。そんなシーズンを2年ぶりにホンダと戦う。

 そんなホンダの一部のスタッフにも中嶋引退の決意は伝わっていた。中嶋悟最後のF1シーズン、ティレル020・ホンダは彼の最後の愛機として、ニッポンF1ブーム絶頂期に現れた。

 前身の019は、前年の90年にジャン・アレジのパフォーマンスで一躍注目の的となった。アンヘドラルウイングが特徴であるマシンは、中嶋もドライブしたことで国内でも人気を博した。
 
 その後継機に89、90年とマクラーレンにチャンピオンをもたらしたホンダV10が搭載されるとなれば、期待しない方がおかしい。

 中嶋のチームメイトに抜擢されたのがステファノ・モデナだ。アイルトン・セナ、ネルソン・ピケ、アレジといったキャラクターの濃い中嶋歴代の相棒たちに比べると若干の“地味”さは否めない。

 TV中継でも“シャイなイタリアン”と言われていたほどだから目立つキャラではなかった。しかし、競争力の劣るブラバムで表彰台に立つなど実力派ドライバーだったことは間違いない。ただ、そのまわりにいた主役級ドライバーたちの個性が強すぎただけなのだ。

 毎号1台のF1マシンにフィーチャーし、マシンが織りなすさまざまなエピソードとストーリーを紹介する『GP Car Story』。現在発売中の最新刊Vol.33では、ティレル020を特集。

 「先進のエアロパッケージ」と「チャンピオンDNAを持つエンジン」の組み合わせは、なぜうまく機能しなかったのか……。当時28歳、自らのキャリアを発展を信じてティレル・ホンダをドライブしたモデナのインタビューを全文公開する。

 あなたがあの当時のF1を知っているなら、インタビューを読み終わったあとにモデナへのイメージが一変するかもしれない。そして、こう思うだろう「もったいなかったな」と……。
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──あなたは90年にはブラバムにい ました。ティレルと契約した経緯に ついて聞かせてください。

「ケン・ティレルから電話があった。90年シーズンの半ば頃だったかな。来年はホンダとピレリのパッケージになるから、うちのチームでドライブしないかという誘いだった。契約書にサインをしたのは、ポルトガルGPの週末だったと思う。日本とオーストラリアへ向けて出発する前だ。パッケージは気に入ったし、とてもいいオファーだと感じた。そして、ポルトガルGPのあと、そのまま現地に残って月曜日にテストをしたんだ。ジャン・アレジが乗っていたフォード・エンジンのクルマだった」

──90年のブラバムと比べて、019の印象はどうでしたか?

「あのシーズンのブラバムは明らかに資金不足で、かなり悲惨な状況だった。予算のことに関わっていたわけではないが、金がないのは様子を見ていれば分かる。クルマも寄せ集めという感じで、モノコックは前年のものをそのまま使っていた。チームは本当に素晴らしくて、好きだったんだけどね……。

 ともあれ、ティレルのクルマはまるで別物だった。とても軽快でドライブしやすく、エンジンブレーキがすごく穏やかだったので、あまり時間を要さずに慣れることができた。スロットルを戻すと、惰性でスーッとクルマが走るんだ。一番驚いたのはそれだね。

 ブラバムのジャッド・エンジンは、パワーオフにすると抵抗で強く減速するのを感じたが、ティレルのフォードではそれがなかっ た。とにかく軽くて乗りやすく、タイヤもしっかり機能させていたから、レースタイヤから予選タイヤに交換したり、コンパウンドが違うものに履き替えたりすると、その違いがはっきりと分かった。

 前後の重量配分も絶妙で、すごくバランスが良いんだ。コーナーでアンダーステアになったりオーバーステアが出たりすることもなく、クルマを信頼して乗れたので、最初から高い速度を保って進入できた」

■別物に変化したマシン

──そして、12月にはシルバーストンで、ホンダ・エンジンの020に乗ったのですね?

「最初のテストは、確かシルバーストンでのシェイクダウンだったと思う。その後、またポルトガルで走らせて、さらに南アフリカにも行った。あのクルマはいろいろなところが変わっていて、フォード・エンジンのクルマとは別物になっていた。一番の違いはエンジンがすごく重かったことだ。もちろん、フォードよりずっとパワフルだったが、とにかく重かった」

──予想を超える重さだったということですか?

「その話になると、ハーベイ・ポスルズウエイトはいつも『30kgも重いエンジンを載せることになるとは思ってもいなかった』と嘆いていた。その結果、バランスと重量配分が台無しになったと言ってね。

 おそらく、『フォードの重量はどのくらい?』というホンダの質問に、彼は『100kgくらい』と答え、『そちらは?』という問いに、彼らは『こっちも約100kgだ』と返答したのだろう。

 だが、彼らはオイルと水が増える分や、オイルクーラーやラジエターの重量を含めていなかったとか、そんなことなんじゃないかな……。つまり、ティレルとホンダの間で、何らかの誤解があったのだと思う。

 結果として、私たちのクルマはただ重いだけでなく、重量配分も的外れなものになってしまった。実際、ドライバーとして019での短時間のテストでできたことが、ホンダ・エンジンのクルマではできなかったからね」

──ピレリタイヤについては、どうでしたか?

「モナコのような低速コースでは、とても良く機能した。彼らはトラクションを重視したタイヤを作っていたからだ。だが高速サーキットへ行くと、まったく役に立たないとまでは言わないが、それに近いものがあった。少なくとも、グッドイヤーと対等ではなかったね」

──温度に対する反応に一貫性がなかったとも言われていますね。

「それだけではなく、むしろ一番の問題は方向性が定まらなかったことだ。コンパウンドを変えたかと思うと、今度は構造を少しいじってみるとか、彼らは進むべき方向が分かっていなかった。

『よし、この方向で行こう』という大きな方針がなかったんだ。モナコでは、とても幸運なことにパッケージがうまく機能して、予選で2位につけた。残念ながら、レースではエンジンが壊れてしまったけどね。しかし、他のサーキットではまるで競争力がなかった。タイヤだけではなくパッケージ全体として、期待したほどの競争力はなかったということだ」

■特性変化の原因

──重量配分の悪化が原因でアンダ ーステアになったのですか?

「リヤエンジンのポルシェ911に乗ったことがあるかな? ポルシェはリヤがすごく重くて、フロントが軽い。コーナーを速く走ろうとすると、重いリヤエンドがドライバーを追い越したがっているような動きをして、強いオーバーステアに見舞われる。

 そうなるともう安心してドライブできないから、乗り方を変えて進入速度を少し犠牲にして立ち上がりの速度を上げる。すると今度はアンダーステアになるんだ。リヤが、軽いフロントを真っ直ぐに押し出そうとするからだ。いつもそんな感じで、バランスがいいところを見つけるのがすごく難しいんだ。

 ひとつ面白い話がある。アイルトン・セナとは顔を合わせれば雑談をするような仲だったので、90年にポルトガルでテストをした時にも少し話をした。

 彼が『クルマはどうだい?』と尋ねて、私は『すごくいいよ。とても軽くて』と答えた。すると彼は『来年になれば、ホンダ・エンジンがどれほど重いか思い知らされることになるよ』と脅かすんだ。

『まさか、そんなに違うわけないだろう』と私が反論すると、『まあ、いずれ分かるさ』と言われた。私たちはいつも冗談を言い合っていたから、そのときは私をからかっているのだと思った。

 そしてシーズンが始まって、やっと理解できたんだ。程度の差こそあれ、マクラーレンも同じ問題に直面していたんだとね。だが、彼らはホンダと長年一緒に仕事をしていて、おそらくサスペンションに手を加えるとか、何か私たちとは違うやり方で問題を解決したのだと思う」

──シーズン中にクルマは進歩しましたか?

「フロントサスペンションのアンチダイブを変えたり、いくつか小さな変更を加えたりした。実際、シーズン終盤の日本やオーストラリアのレースでは、クルマはずいぶん良くなっていたよ。ジョージ・ライトンがフロントサスペンションを改良したからだ。

 彼はホイールベースを変えることで重量配分も改善した。そのおかげで、日本へ行く頃には、かなりいいクルマになっていた。シーズンの途中で、一部のモノコックに欠陥があったことも発覚した。

 製造上の問題で、剛性が足りないものがいくつかあったんだ。それがようやく分かったのはシルバーストン(7月中旬)でのことで、それもある偶然から発見された」

■020のポテンシャル

──いくつかのレースについて、振り返ってみましょう。サンマリノGPでは3番手を走っていながら、リタイアに終わりました。

「原因はディファレンシャルギヤだった。雨が激しく降っていて、3番手にいたのは運が良かったからだ。アラン・プロストはスタート前にコースオフして、アレジも私をオーバーテイクしようとしてコースから飛び出した。

 他にも何台か、前にいたクルマが止まったんだ。開幕戦のフェニックスでも似たようなことが起きた。スタート位置が何番手だったか忘れたが、私の前を走るクルマが次々と止まってしまい、運に恵まれて4位に入った。率直に言えば、シーズンを通じて、本当に競争力があったレースはモナコGPだけだった」

──フィニッシュできなかったにもかかわらず、やはりモナコGPがキャリアのハイライトのひとつなのでしょうか? それはベストを尽くしたと感じられたからですか?

「そうだね。あのとき私のクルマはとても速くて、予選でもレースでも本当に競争力が高かった。実際、実力でポディウムに上がれる可能性があったのは、あのレースだけだったと言ってもいい。

 その次のカナダGPは2位でフィニッシュしたが、それは前を走っていたドライバーたちがリタイアしたからで、コース上では1台しか抜いていない。確かリカルド・パトレーゼだったと思うけど」

──モナコでは、トンネルの中でエンジンがブローアップしました。その瞬間、どんな考えが頭をよぎったのでしょうか?

「本当に何の前触れもなかった。あの件に関しては、ホンダの技術者とも話し合った。彼らとは、とても良い関係を築いていたんだ。私は彼らのことが好きで、心から尊敬し、うまく協力し合っていた。

 あのときに何が起きたのかについては、長い時間をかけて話し合ったよ。トラブルの原因について、ホンダの人たちはいくつかの可能性を示してくれたが、結局確かなことは分からなかった。

 単純なオーバーレブではない。もしオーバーレブが原因なら、ヘッドのバルブが損傷していたはずだ。だが、バルブは壊れていなかった。エンジンブロックより下の部分で何かが起きたんだ」

──あの状況でリタイアするのは、とても悔しかったことでしょう……。

「うれしくはなかったよ。あのポジションを走るにふさわしいレースをしていると思ったし、間違いなく競争力があった。だが、それもレースではよくある、ごく普通の出来事だ。

 20台がスタートして全車完走する最近のF1とは違って、当時はリタイアがずっと多かった。参加30台で、完走は5台というレースも一度ならずあったほどだ! 

 どこだったか思い出せないが、レース中にシフトレバーが折れたこともあった。私たちの時代には、そういうトラブルがよくあって、なかなかポイントを獲れなかった」


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