現在発売中の雑誌『レーシングオン No.511』ではARTA総監督にしてF1時代には日本人で初めて表彰台に立った男、鈴木亜久里のレース人生を総特集している。
10000字以上におよぶ亜久里本人へのロングインタビューや歴代愛機コレクションのほか20年以上にわたるARTAの実績など特集内容は多岐にわたるが、目玉はやはり2本のスペシャル対談だ。ひとり目は亜久里の“恩師”でもある舘信秀、ふたり目はスーパーアグリ時代に監督とエースドライバーという関係で共闘した佐藤琢磨だ。
ここでは『レーシングオン No.511』に収録されている、佐藤琢磨との対談記事から一部を抜粋してお届けしよう。
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(以下抜粋)
──会った途端に話に花が咲きましたね。
佐藤琢磨(以下。琢磨):話したいことがいっぱいあります(笑)。
鈴木亜久里(以下、亜久里):いや、本当だよね。だってさ、スーパーアグリF1(SAF1)が終わって今年でもう13年だって。あっという間だよね。でも、まるで昨日のことみたいだよね。
──SAF1の立ち上げは、亜久里さん45歳、琢磨さん28歳のときでした。
琢磨:28歳! まだ20代だったんだ。
亜久里:そうだよ。いま琢磨が43歳だから、俺がF1チームを立ち上げたときに近い。琢磨はSRS‐Fを首席で卒業して、田中弘さんが監督だった童夢でF3にデビューしたでしょ?
琢磨:弘さんと松本恵二さんです。
亜久里:最強の歩み出しだよね?(笑)
琢磨:最強過ぎました(笑)。でも、そのおかげで、亜久里さんのドライバーとはいつもライバル関係でした。
亜久里:そこからすぐヨーロッパに行っちゃったから、俺とはあんまり接点がなかった。でも、琢磨は自分の力で全部、道を切り開いていった。頭がいい子だから、そういうことができるんだよね。
琢磨:いやいや、そんなことありません。
亜久里:人に何かしてもらうのを待っているんじゃなく、自分で開拓していくという意味では、俺がやってきたことと似ているよね。
──2005年にSAF1の計画が明らかになって、ふたりは急接近していきます。
琢磨:あの年の終わりに亜久里さんから「一緒にやろうぜ」と声をかけていただいたのがきっかけでした。
亜久里:俺はね、「F1やるから協力してよ」って琢磨に頼んだんですよ。ちょうど琢磨がBARを離れるのと、俺がチームを立ち上げるタイミングが重なったから。
それで最初に琢磨に話したのは「オマエ、いままではお金持ちの家の子だったけれど、これからは貧乏な家の子だからね。頼むよ」って。それが第一声だった。
琢磨:それが05年の暮れだったから、本当に大変でした。僕が仕事で沖縄に行っているとき、イギリスにいるマーク・プレストンから電話がかかってきたりとか。それで僕から亜久里さんに「なんか、モノコックが使えないらしいですよ」と伝えた。
それが12月で開幕は3月でしょ? 当時、亜久里さんは本当にいろいろなところを飛び回っていたから、お手伝いできるところはしようと思って、技術系は僕が話をつないでいきました。
亜久里:いや、本当に琢磨は文句のひとつもいわずによく頑張ってくれたよ。でもさ、開幕戦のバーレーンでクルマ走らせて、そのあまりの遅さにはビックリしたよな(笑)。あのときはウチよりGP2のほうが速いんじゃないかと思ったね。
──でも、そこに至るまでにも予想外の展開がたくさんあった……。
亜久里:FIAに納める供託金の55億円を集めるのが、どれだけ大変だったことか。
琢磨:でも、亜久里さんはそれをひとりでやって、僕たちにはお金の話を聞かせなかった。亜久里さんに言われたのは、最初のバルセロナのテストに井出有治選手と行ったとき、「フロントウイングは1個しかないからな」ということ。
あのときはクルマも1台しかなかったから、とにかく慎重に走りました。それでも速く走らないといけなかったので、あの頃は本当に僕もすごく成長させてもらいました。