1月30日、2019年からスーパーGT GT300クラスとピレリ・スーパー耐久シリーズのST-Xクラスに、それぞれ1台ずつマクラーレン720S GT3を投入することになったチームゴウ。今回の参戦は『マクラーレン・カスタマーレーシング・ジャパン』というエントラント名ではあるが、1996年以降日本のモータースポーツ界に多くの話題を提供してきたチームの復活となる。以前からスーパーGTを見てきたファンにとっては馴染み深い名前だが、最近見始めたファンのために、その歴史を簡単ではあるがご紹介しておこう。
■3年目のJGTCにやってきた“黒船”
チームゴウは、1976年のF1・イン・ジャパンをはじめ、さまざまな国際レースで運営に携わった経験をもつ郷和道代表が1996年、チーム・ラーク・マクラーレンを設立し、当時のJGTC全日本GT選手権に参戦を開始したのがはじまりだ。郷代表はブリヂストン創業者の家系の出身で、ブリヂストンや広告代理店でも働いた経験もある。
当時、JGTCはシリーズが誕生して3年目。当初はグループAから流用されたR32スカイラインGT-Rが主役であったが、初年度からグループCのパーツを流用したトヨタ・スープラやタイサンが持ち込んだフェラーリF40、さらに2年目の95年には高いパフォーマンスをもつポルシェ911 GT2が台頭。“GT-R vs スープラ vs 外国車”の構図が人気を呼んでいた。
そんなJGTCに、まさに“黒船”とばかりに登場したのが、チーム・ラーク・マクラーレン=チームゴウのマクラーレンF1 GTRだった。鬼才ゴードン・マーレイがデザインした夢のスーパースポーツカーのレーシングバージョンは、1995年に関谷正徳/JJレート/ヤニック・ダルマス組がル・マン24時間で優勝するなど、当時ヨーロッパで争われたBPR GTを中心に、GTレースを席巻したマシンだった。
投入されたのは2台。60号車が服部尚貴/ラルフ・シューマッハーと、当時速さを誇った若手ふたり。もう一台が耐久レースで名を馳せたデイビッド・ブラバム/ジョン・ニールセンというコンビだ。ちなみに、この年からJGTCは今と同じ2名乗車が義務づけられている。メンテナンスはチームルマンが担当した。
ただ、ヨーロッパと日本では車両のパフォーマンスレベルが異なり、マクラーレンF1 GTRは、もともとの車重を大きく上回る1200kgで走ることを余儀なくされたほか、ブレーキももともとのカーボンブレーキからスチールに変更。たびたびブレーキトラブルに悩まされることになる。
とは言え、他のマシンとはもともと設計思想から違うマクラーレンの実力は別格で、この年は全戦ポールポジションを獲得。レースではF1を下りたばかりのエリック・コマスと竹内浩典が乗り込んだセルモのスープラが1勝、星野一義/影山正彦組カルソニックスカイラインが1勝を飾るも、全6戦中4戦を制し、ブラバム/ニールセン組がチャンピオンを獲得した。
当時日本で高いシェアがあったタバコブランドのラークをメインスポンサーにしつつも、タバコのパッケージとは異なる鮮烈な蛍光レッドとブラックのカラーリングを施し、マクラーレンF1にエンジンを供給していたBMWのロゴをつけ、速さに加えスタイリッシュな外観をもったチーム・ラーク・マクラーレンは、JGTCでは異色の存在と言えた。
ただマクラーレンに対し、第4戦富士の前に不利となる車両規則改定が行われ、これに異議を申し立てたチームは、GTアソシエイションを脱会。第4戦からは全車のゼッケン上部にあったシリーズのロゴもマクラーレンからは外され、ピットも端に。ダブルタイトルは獲得しつつも、結果的にチーム・ラーク・マクラーレンのJGTC参戦は、この1年だけで幕を閉じた。
翌97年からは、JGTCにはホンダがNSX-GTで本格的に参戦を開始。ニッサンvsトヨタvsホンダという、現在に続く国産3メーカーの対決の構図ができあがっていった。