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F1 ニュース

投稿日: 2023.06.11 08:38

最強のアクティブマシンFW15CでF1デビュー。30年前の“歯痒い記憶”をデイモン・ヒルが激白

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F1 | 最強のアクティブマシンFW15CでF1デビュー。30年前の“歯痒い記憶”をデイモン・ヒルが激白

 1993年、F1はハイテク全盛の時代にあった。そうは言っても、今のF1が“ローテク”だと言っているのではなく、当時のエンジニアリングレベルが今より高かったというわけでもない。人知の限りを尽くし、限られた状況下でもテクノロジーを駆使してクルマを速くしようとした時代、それが1993年を頂点にしたあの頃のF1だった。

 確実に今の方が技術は上だが、それでもエイドリアン・ニューウェイは自らが開発に携わったウイリアムズFW15Cを、「エンジンの技術を別として、技術的にあのクルマは歴史上もっとも進んだF1マシンだった」と回顧する。

 ウイリアムズが速さを追求するためにテクノロジーと向き合い始めた頃、デイモン・ヒルはテストドライバーとして多くの走行をこなしていた。アクティブカーのテストで最も距離をこなしていたのも紛れもなく彼だった。そんなヒルが1993年に一躍脚光を浴びることとになる。1年の休養から復帰する元世界王者アラン・プロストのチームメイトとして、F1レース出走経験わずか2戦のヒルが大抜擢されたのだ。

 92年の世界王者に輝いたばかりのナイジェル・マンセルが、突如インディカーへの転向を決断したことで、ウイリアムズはその後任探しに苦労する。その際、極端に経験の少ないヒルが最後まで候補者リストに名前が残っていた理由はほかでもない、ウイリアムズのクルマとチームをもっとも理解しているドライバーだったからだ。

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──ナイジェル・マンセルがインディカーに転向すると決めた1992年シーズン、あなたはブラバムから出場し、一方でウイリアムズのテストドライバーを担っていました。どのように話が進んだのですか。

「ナイジェルが92年の世界選手権を制してアメリカへ拠点を移すことにより、フランク(ウイリアムズ)のチームにドライバーがいなくなってしまうことが分かった。それがモンツァのレースの週末だった。誰もが驚き、ショックを受けたよ。扱いに腹を立てたナイジェルはチームを去る決心をし、フランクは引き止めに必死になったが、結局ウイリアムズのシートがひとつ空くことになった」

「その後、私にはウイリアムズのドライバーにふさわしい実力があるか、準備ができているのかと、長い話し合いが行なわれた。今にして思えばあんなブラバムであっても、レースに出場していたことが多少は役に立ったと思う。91年にドライブしていたF3000のクルマはあまりにも競争力がなさすぎた。あのローラはクズそのものだったね。ひどいクルマのせいで、91年のF3000では大した成績を残せずにいた。とはいえ、当時の私はウイリアムズのテストドライバーを務めていたが、自分の実力を証明するためにはそれだけでは不十分だったんだ。結果的にブラバムで経験を積んだことが功を奏したのだろう」

「ナンバー2のリカルド(パトレーゼ)までもがベネトンへ移籍するというので、チームに残されたのは私か、そのベネトンから弾き出されたマーティン(ブランドル)のいずれかという選択肢だった。実はリジェからも打診をされていて、返事を迫られていたんだ。結局、ウイリアムズをドライブできる可能性がわずかでもあるなら、リジェでのチャンスを失うリスクを冒しても構わないと判断して誘いを断った。私はウイリアムズにこだわったが、マーティンはリジェを選ぶだろうと思っていたよ。最終的に私以外に候補者がいなくなったわけさ」

1992年F1ハンガリーGP ブラバムBT60Bを駆るデイモン・ヒル
1992年F1ハンガリーGP ブラバムBT60Bを駆るデイモン・ヒル

──シートを得られるチャンスがあると分かったのはいつ頃ですか。

「長時間、パトリック(ヘッド)と話をする機会があった。私が巨大なプレッシャーに晒されることになるのを、分別のあるパトリックは心配してくれていたよ。私たちはオフのテストを行なっていたポールリカールでいろいろ話をした。その際に言われたのが、93年のウイリアムズのレギュラーシートを得る絶好の機会だということだ」

「ただし、F1の世界の一員でいるためには何が必要なのかを認識しておくようにとも言われた。なんだか父と息子の会話のようだったね。私が対処できるかどうかをパトリックは知りたがっていたが、実際のところ彼は私に何て言わせたかったのかは今でも分からない。『うまくできるとは思えない』と言わせたかったのか……、私は『大丈夫、うまくやれる。心配無用だ』と、答えたんだ。その後、チームは決断して連絡をくれた」

──何が影響したのでしょうか。

「私を起用するか否かを判断するためのテストを行なうというので、飛行機でエストリルへ向かうことになった。ところが、ロンドンで渋滞に巻き込まれてしまい飛行機に乗り遅れそうになった。まったく打つ手のない車内で怒りが爆発しそうになり、『これでおしまいだ、もうダメだ』と何度思ったことか。しかし、信じられないことに、本当にギリギリのタイミングで間に合ったんだ。そのときだよ、今日が11月29日で、父が飛行機事故で亡くなった日だと気づいたのは。それからだね、この事態を乗り切ればすべてがうまくいくに違いないと、不思議と確信が持てたんだ」

「91年限りで予選用(Q)タイヤが使われなくなっていたが、グッドイヤーにはまだストックがあったんだ。私はQタイヤを履いたFW14Bでエストリルを走った。Qタイヤを装着したアクティブカーで、ギヤを目一杯上げて、最終コーナーは全開、まさに常軌を逸した走りだった。マシンのライドハイトは路面ギリギリで信じられないくらいだった」

「私はそつなく仕事をこなしたよ。自ら状況を確認するために、その週はフランクもエストリルを訪れていた。そして、その場で私の起用が決まったんだ」

──フランクからはどのように告げられたのですか。

「金曜日の夜だった。『ディドコットまで来られるか?』と聞かれたので、生意気にもこう答えた。『そうですね、それなりの理由があるとありがたいのですが。なんせ金曜日の夜で、ラッシュアワーは大渋滞になりそうなので!』」

「ファクトリーに到着すると、『ぜひ君にドライブしてもらいたいと思っている』ではなく、『スタッフの中に君なら良い仕事ができる、と言っている者が何人かいる。私はエンジニアたちに多大な信頼を寄せているものでね』と言われた」

「フランクは絶対に『君ならできると信じている』とは言わなかった。私に対してエンジニアが太鼓判を押したとしか言わなかった。それに『他に誰もいないので、君にシートを与えることにした』とも、決して言わなかったけどね」

ウィリアムズからの参戦が決定したデイモン・ヒルとチームオーナーのフランクウィリアムス
ウィリアムズからの参戦が決定したデイモン・ヒルとチームオーナーのフランクウィリアムス

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