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F1 ニュース

投稿日: 2023.09.06 11:50

タキ井上のF1参戦を実現させた史上最も優秀なマネージャー【タキ井上が語る敏腕F1マネージャー/最終回:前編】

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F1 | タキ井上のF1参戦を実現させた史上最も優秀なマネージャー【タキ井上が語る敏腕F1マネージャー/最終回:前編】

 1994年の日本GPでF1デビューを果たし、1995年には日本人4人目のフルタイムF1ドライバーとなった“タキ井上”こと井上隆智穂。F1引退後、さまざまなかたちでレーシングドライバーのマネジメントに携わったタキ井上が、敏腕F1マネージャーたちについて語るautosport web Premium連載『タキ井上が語る敏腕F1マネージャー』。今回はいよいよ最終回・前編です。より多くの方にお読みいただけるよう、前編は特別無料公開でお届けいたします。

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 久々の掲載ながら本稿も今回で最終回を迎える。今回はF1史上、最も優秀なドライバーマネージャーを取り上げたい。もちろん、その名はタキ井上!

 ……と言いたいのはやまやまだし、もしかすると一部の読者はタキ井上の名前を期待されていたかもしれない(汗)。しかし、神に誓ってそれはない! では、いったい誰なのか?

 それは元レーシングドライバーで現在67歳のイギリス人デイビッド・シアーズ! 「え? 誰それ?」というオートスポーツweb読者の反応も当然かもしれない(汗)。ということでまずは彼とタキ井上の付き合い、そしてシーアズの素性というか彼の驚くような家柄を読者のみなさんには知っていただきたいと思う。

 タキ井上がシアーズに自分の将来を任せたのは、おそらく1987年だったと記憶している。当時の僕はフォーミュラカーレースの入門カテゴリーにあたる、イギリス・フォーミュラ・フォード1600(イギリスFF1600)選手権になけなしのお金で参戦していた。しかし、東洋の島国から大きな夢を見て渡英したタキ井上は、当時参戦していた某イギリスFF1600チームに“しっかり”と騙されていたのである(汗)。

 意気消沈している僕に声を掛けてくれたのが、1986年にイギリスのジム・ラッセル・レーシング・スクールで学んでいたころに知り合ったらしいシアーズだった。彼は、「そんなチームは辞めてウチのチームで走れよ」と進言してくれた。ちなみに当時の彼は現役レーシングドライバーでありながらも、イギリスFF1600を活動主体とするレーシングチームを立ち上げてホヤホヤの時期。もし、彼に出会わなかったら渡英した多くの日本人ドライバーと同様に、タキ井上も騙されたままトボトボ帰国するハメになっていたはずだ(汗)。

イギリスFF1600に参戦する井上隆智穂と、チームを率いたデイビッド・シアーズ
イギリスFF1600に参戦する井上隆智穂と、チームを率いたデイビッド・シアーズ

 1987年はシーズン途中で彼のチームへ移りイギリスFF1600を戦った。シーズン終盤になってシアーズと1988年シーズンに関して話したところ、イギリス・フォーミュラ・フォード2000(イギリスFF2000)のクルマを手に入れてイギリスFF2000選手権にも参戦するという。なんでも、1987年のイギリスFF2000とヨーロッパFF2000でのちのF1ドライバーとなるJJレートを擁してダブルタイトルを獲得したパシフィックレーシングが、スポンサーであるマールボロとともに1988年はイギリスF3選手権に参戦するので、必然的に手放すイギリスFF2000のクルマを彼が買う算段を取り付けたらしかった。さらにそのイギリスFF2000のナンバー1ドライバーとして、パシフィック・レーシングはのちにキミ・ライコネンのドライバーマネージャーとなるスティーブ・ロバートソンを走らせるのである。

 もっとも、タキ井上はそのイギリスFF2000ではなくイギリスFF1600でシアーズとともに1988年を戦い、1989年にはイギリスF3選手権参戦を望んでいた。そんなこんなおぼろげながらも将来の話を彼としながら迎えようとしていた、1988年最後の祭典フォーミュラ・フォード・フェスティバル(FFF)。僕はシアーズに、「お金がないけれどFFFに出られないのかな?」とお願いした。もちろん、「お金が無ければ出られないよ」というツレない返事だったのは言うまでもない。

1987年イギリス・フォーミュラ・フォード1600のオウルトンパーク戦。4号車はエディ・アーバイン(バンディーメン・レーシング)
1987年イギリス・フォーミュラ・フォード1600のオウルトンパーク戦。4号車はエディ・アーバイン(バンディーメン・レーシング)

 実のところ、僕はFFFに出ようと思えば出られた。FFF参戦に必要な3000ポンド(当時の為替レートで約68万円)は懐にあったのだ。しかし、それは別のところで使いたかった。僕は“思い出作り”も兼ねて、なんとしてもイギリスF3のクルマを運転したかった。そして実際、トヨタエンジンを搭載するアルゴチームのラルトRT32というF3マシンで、2日間のテスト参加を叶えた。あのとき同じサーキットで、のちにティレルF1やフェラーリF1のドライバーとなるミカ・サロがアラン・ドッキング・レーシングのF3マシンでテストしていた。で、「僕のほうがぜーんぜん速いし、アイツもたいしたことねーなぁ」と思っていたわけであって、そうしたらサロは最後の最後、キャメルカラーのF3マシンを全損させてしまった記憶がある。

 ところで1987~1988年当時の僕は、イギリスでB&B(ベッド・アンド・ブレックファスト/安価な宿)に泊まったりアパートを借りたりするお金も無駄にしたくは無かったのでシアーズ家に居候していた。シアーズには、「来年(1989年)帰ってくるから」と言い残してタキ井上は日本へ戻った。そして日本へ戻るときには、大きなトラベルラゲッジを彼の家に置きっぱなしだった記憶がある。その理由は、必ず2週間ほどで戻ってくるという自分を信じていることの証としてであった。しかし、人生とは予定どおりに進むわけもなく、私物を詰め込んだ辛子色したサムソナイト社のトラベルラゲッジは、いまでも彼の家に置いたままだ。で、いつかそのトラベルバゲッジの“タイムカプセル”を開けるイベントを開催しようと、連絡を取るたびにシアーズは提案してくるのだが、いったい何が出てくるのか怖くてさすがのタキ井上も首を縦に振れない(汗)。

 話を戻すと、1988年末に胸を張って帰国後、日本でスポンサーを探してくれていた協力者に会ったら、1989年にイギリスF3を戦えるような資金など集まっていないという。「え? 5000〜6000万円は余裕という話は……」(汗)。結局、僕はレーシングドライバーを続けられないという状況に陥り、自動車レース雑誌の使い走りという立場に甘んじた時期もあった。それでもなんとか資金を掻き集めて1990年からの全日本F3選手権参戦を叶えたけれど、結果4年も日本で過ごすハメになり、ようやくヨーロッパへ戻れたのは1994年だった。

井上隆智穂が日本帰国中の1990年、ル・マン24時間でアルファ・ポルシェ962Cを駆り3位という成績を残したデイビッド・シアーズ(左)。チームメイトはティフ・ニーデルとアンソニー・リード
井上隆智穂が日本帰国中の1990年、ル・マン24時間でアルファ・ポルシェ962Cを駆り3位という成績を残したデイビッド・シアーズ(左)。チームメイトはティフ・ニーデルとアンソニー・リード

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