フィンランド / アルファロメオ・レーシング・オーレン /
ゼッケンNo. :7
●国籍:フィンランド
●生年月日:1979年10月17日(41歳)
●身長/体重:175㎝/70㎏
2020年成績
●出走:17回
●優勝:0回(勝率:0%)
●表彰台:0回(獲得率:0%)
●入賞:2回(入賞率:11.76%)
●完走:16回(完走率:94.11%)
●PP:0回(獲得率:0%)
●Q3進出:1回(進出率:5.88%)
●Q2進出:4回(進出率:23.52%)
●FL:0回
●予選平均順位:16.64位
●決勝平均順位:13位
●ドライバーズランキング:16位/4ポイント
通算成績
●F1デビュー:2001年第1戦オーストラリアGP
●在籍チーム:ザウバー(2001年)→マクラーレン(02~06年)→フェラーリ(07~09年)→ロータス(12~13年)→フェラーリ(14~18年)→アルファロメオ(19年~)
●出走:329回
●優勝:21回
●PP:18回
●FL:46回
●表彰台:103回
●入賞:215回
●通算獲得ポイント:1863点
●ドライバーズ選手権最上位:1位(2007年/フェラーリ)
※出走回数は決勝スタート数
最初にカートに触れたのは8歳。12歳でレースを走り始める。そのカートでの生活が長く、フォーミュラ転向は20歳を迎える年だ。
だが活動資金は充分ではなく、1999年のフォーミュラ・フォード・ヨーロッパ参戦はわずか2レースで打ち切る。年末が近づくと英国のフォーミュラ・ルノー・ウインターシリーズにシートを見出し、4戦4勝の結果を残して翌2000年のレース活動続行につなげた。
00年のフォーミュラ・ルノーUKは10戦7勝2位1回3位2回のオール表彰台でシリーズ制覇。同ユーロカップにも2レースのみに参加し、2戦ともに勝利した。
しかし、上のカテゴリーに進めるだけの自己資金はなかった。救世主となったのが、ザウバー(現アルファロメオ)だ。フォーミュラ・ルノーでの異様なまでの勝率に目をつけ、9月のテストに招待した。テストはへレスとバルセロナのスペイン2カ所で行なわれたが、F1初ドライブにもかかわらず、タイプの異なるふたつのサーキットでいずれも印象的なペースを残す。チームはすぐさま、翌01年のレギュラードライバー起用を決断した。
だが、この契約は物議を醸す。F3の経験すらないドライバーを、F1で走らせていいものか。経過をみるべきとの意見が多く、デビュー時に発給されたF1スーパーライセンスは暫定かつ4戦限定というものだった。
しかし開幕戦オーストラリアを予選13番手からスタートを切ると、6位入賞を果たす。これによって雑音は封じられ、正規ライセンスの発給に至る。この年、最高位は4位(2回)をマークした。
それもシーズンまだ前半段階のことで、大物新人ぶりに早くもトップチームたちからの食指が動く。当初はフェラーリでのテストドライバーからレギュラーへの道が取り沙汰されたが、02年に向けては同郷ミカ・ハッキネンの引退でひとつシートが空くマクラーレンが最終的に争奪戦に勝った。
マクラーレン移籍を果たすと、緒戦オーストラリア3位でF1初表彰台。この年は勝利こそならなかったが、終盤までリードしたレースもあり、最高位2位を含む計4度の表彰台を得る。
03年は、F1トップドライバーとしての地位を確立した年だ。第2戦マレーシアでフェルナンド・アロンソとの攻防を制して、F1初勝利を挙げた。第9戦ニュルブルクリンク開催のヨーロッパGPでは、初ポールポジションも獲得。優勝は1回に留まるものの、しぶとく入賞を重ね、最後はわずか2ポイント差でミハエル・シューマッハーとのドライバーズタイトル争いに敗れる。
次に王座に近づいたのが、05年。アロンソと並ぶシーズン最多7勝で激しく争うも、最終的には振り切られた。06年はマクラーレンが開発を失敗し未勝利だったが、シューマッハーの後継として07年フェラーリ移籍が決まった。
そして迎えた07年、ルイス・ハミルトン、アロンソとの間の三つ巴決戦を最終戦ブラジル優勝でふたりを1ポイント差退け、逆転で初のF1ドライバーズチャンピオンを手にした。だが08年は終盤で王座争いから脱落、09年はクルマの不調で1勝を挙げたのみ。10年に向けてフェラーリはアロンソ獲得に動き、チーム放出が決まる。
移籍交渉も不発で、とった選択肢は翌10年からのWRC(世界ラリー選手権)参戦だ。すでに09年中にはF1スケジュールを縫って複数のラリーを走っており、そこには自国フィンランド開催のWRCも1戦含まれていた。
ラリーではシトロエンと手を結び、フル参戦ではなかったものの、その後2年のWRCシーズンを過ごす。最高位は10年トルコでの総合5位。11年は米国NASCARにもスポット参戦し、プジョーのル・マン24時間レース向けスポーツプロトタイプをテストする等、広範囲の可能性を探る時期もあった。
そのなかで秋口には、ウイリアムズとの接触が報じられる。F1復帰への動きが加速し、最終的には12年契約をロータス(現ルノー)との間に結んだ。2年のブランクを跳ね返し、第18戦アブダビ優勝を含む7度の表彰台に立ち、ドライバーズランキング3位獲得。13年も開幕戦オーストラリアで1勝を挙げるなど好成績を続け、14年の古巣フェラーリへの復帰が決まった。この年は終盤に背中の痛みを訴えて、治療のために最後の2戦を欠場した。
14年はアロンソと組み、15年からはセバスチャン・ベッテルが跳ね馬でのパートナーとなった。このフェラーリでの第2期はチームメイトとの争いに敗れ、表彰台やポールポジションはあるものの、長く勝利から遠ざかる。最初の2年契約が切れる15年からは毎年のように翌年のチーム放出がささやかれてきたが、18年まで残留。そして18年9月、シャルル・ルクレールとシートを入れ替えるような形で、かつてのデビューチームであったアルファロメオとの2年契約が公表される。そこから2カ月後の第18戦アメリカGPに勝ち、F1歴代最長ブランクとなる113戦ぶり勝利をあげた。
アルファロメオ移籍1年目の19年は、同僚アントニオ・ジョビナッツィの3倍を超す獲得ポイント43を挙げた。2シーズン目の2020年は、シーズン序盤から『C39』のパフォーマンス不足に苦戦。ライコネンによると、2月にバルセロナで行われたプレシーズンテストの時点で望んでいたような状況にはなかったという。
それでも第9戦トスカーナGPでシーズン初入賞を挙げ、第10戦ロシアGPではルーベンス・バリチェロの持つF1史上最多出走記録に並んだ。そして第11戦アイフェルGPでは323戦目のレースを迎え、最多出走記録を塗り替えた(2020年シーズン終了時点でエントリー回数332回、出走回数329回)。結局このシーズンは入賞2回、獲得ポイントはわずか4点だったが、41歳のライコネンは2021年もアルファロメオからF1に参戦する。
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