ポルシェ カレラカップ、1,000回開催を達成

世界的に親しまれているポルシェ カレラカップが記念すべきレースを開催

ポルシェAG(本社:ドイツ、シュトゥットガルト 社長:Dr.ヴェンデリン・ヴィーデキング)が主催するポルシェ カレラカップの第2戦が5月31日(日)にドイツで開催され、21台のポルシェ911 GT3カップによって熱い戦いが繰り広げられました。このポルシェ カレラカップは今年で20年目のシーズンを迎えており、ラウジッツリンクにおける今回のレースは、開催回数1,000回を記念する非常に特別なレースでした。1990年にホッケンハイムリンクで ポルシェ カレラカップの第1戦が開催されて以来、このカレラカップ ドイツは、絶妙なドライビングテクニックやドラマチックなレース展開によって見る人を魅了してきたほか、ドライバーのキャリア形成にとっても重要な役割を果たしてきました。またこのレースにおいて、ポルシェはプライベートチームのレース活動をサポートしています。1990年、ポルシェはフランスでのカレラカップ開催にも踏み切っており、それから3年後、ポルシェ スーパーカップによって、ポルシェのモータースポーツイベントは国際的にも大きな広がりを見せています。

世界に認められたコンセプト

1986年、ポルシェは944ターボ カップによってワンメイクレースの歴史をスタートさせました。この944ターボ カップは、プロダクションモデルの944ターボをベースにした車両で、搭載された2.5リッターエンジンの最高出力は250PSでした。ニュルブルクリンクを舞台に開催された最初のレースでは、合計39台の944ターボ カップが出走しています。またこのワンメイクレースに対しては、全てのレース車両がイコールコンディションで競い合えるよう、各種のレギュレーションが設けられました。レギュレーションは、車両の改良に関する禁止事項を幅広く網羅するとともに、コントロールタイヤや使用燃料についてのルールをも規定したもので、こうしたレギュレーションを設けたことにより、マシン個別のテクニカルアドバンテージは存在しなくなり、レースの勝敗はチームやドライバーのスキルに大きく依存するようになりました。各レースはショートスプリント形式で、全レースでの獲得ポイント数によって優勝が決定。
このシーズン、9レースに参戦して初の総合優勝に輝いたのは、ドイツ出身のヨアヒム・ヴィンケルホックでした。彼はその後もツーリングカーレースにおいて輝かしいキャリアを築いています。その後1987年から1989年にかけては、ヨアヒム・ヴィンケルホックと同じドイツ出身のローランド・アッシュが王者の座を獲得しています。

現在、ポルシェのカップシリーズは世界各地で13を数えるまでに増え、4大陸、20カ国で開催されています。そしてその最高峰に位置するのがポルシェ・モービル1スーパーカップです。このスーパーカップは国際イベントとしての地位を獲得し、FIAが主催するF1世界選手権のサポートレースとして開催されています。

「これは1993年以来、モータースポーツの頂点に対する協力姿勢をポルシェが強化し続けてきたことを示すもので、今後もそうした姿勢を変えることはありません。」と、ポルシェAGの研究開発部門を率いる役員のひとり、ヴォルフガング・デュルハイマーは語っています。こうした友好的なパートナーシップは2011年の年度末まで継続されることが確認されています。

さらにトップクラスを目指すカスタマーチームのために、ポルシェは2001年から日本でもこのカレラカップを開催しています。そしてその2年後にはアジアとイギリスでこのチャンピオンシップを開催し、2004年のカレラカップ スカンジナビア、2007年のカレラカップ イタリアと、その開催地域を広げてきました。こうして今日に至るまでの間に、カレラカップとスーパーカップを合わせ、合計999回のカップレースが開催されてきたのです。

野心に満ちたアマチュア選手のために、ポルシェは世界5カ国でGT3カップチャレンジも開催しています。これは従来、オーストラリア、ブラジル、ニュージーランド、米国で開催されてきたものですが、今年は初めて開催国にドイツが加わりました。このシリーズは、アマチュアドライバーやセミプロ級のドライバーのみを対象としたレースです。

最高出力が265PSから420PSに向上

同一のスポーツカーによって争われるワンメイクレースシリーズは、世界中の様々なサーキットで開催されています。最新の911をベースとしたレーシングモデル、ポルシェ911 GT3カップも、こうしたワンメイクレースで使用される1台です。ポルシェがワンメイクレースのひとつであるカレラカップのために用意した最初のマシン、それは911 カレラ2 カップ(タイプ964)でした。搭載されていたエンジンは、最高出力265PS/6,100rpmを発生する、排気量3.6リッターの空冷エンジン。
レース仕様車の車両重量が1,120kgであったことから、この911 カレラ2 カップは、4.23kg/PSというパワーウエイトレオを実現していました。オンロードモデルである911との最も大きな違いは、コックピット内にロールケージが装備されている点で、このロールケージはレースの条件下でその性能を発揮できることを証明しました。

2009年のシーズンも、911の勇姿をサーキットで見ることができます。新たに目にするのは2009年モデルのサラブレッドGTレーシングカー、911 GT3 カップ(タイプ997)です。排気量3.6リッターのハイパフォーマンスエンジンは、最高出力420PS/7,500 rpmを発生。この超近代的なGTレーシングカーは、2.76kg/PSのパワーウエイトレシオを達成しています。公道仕様のモデルに極めて近い911 GT3 カップはそれ故、オンロードモデルの911と同じ、シュトゥットガルト-ツッフェンハウゼンの生産ラインからラインオフされています。そして数々のカスタマーチームがこの最新モデルを使用し、世界中のサーキットで熱い戦いを繰り広げています。

カップカーの成功を一貫して支え続けてきたのは、その信頼性の高さでした。その証拠として、1990年に初めてレースに出場した初代911カレラ2 カップ クーペを私達は今日も目にすることができます。1992年、ポルシェのエンジニアは、3.6リッターエンジンの最高出力を10PS引き上げ、そのエンジンをRSのボディに搭載しました。そして1994年、ポルシェは新たな一歩を踏み出し、よりピュアレーシングマシンに近い、911カップ 3.8 クーペ(タイプ993)を登場させました。最高出力310PS、6速マニュアルトランスミッション搭載、車両重量1,100kgというスペックを誇ったこのマシンは、1997年までスーパーカップで活躍するとともに、翌年の1998年までカレラカップを走り続けました。

進化の過程で次に登場したのが911 GT3 カップ クーペ(タイプ996)です。このマシンは最高出力360PSを発生する、3.6リッターの水冷ボクサーエンジンを搭載しており、1998年のスーパーカップでレースデビューを飾りました。そして1999年には、エンジンの最高出力を370PSに引き上げ、全てのシリーズに出場しています。フェイスリフトと同時に最高出力がさらに10PS引き上げられたのは、それから2年後の2002年で、このときはエアロダイナミクス性能についての見直しも行われました。その後、最終的に最高出力を390PSにまで高めたこの911 GT3 カップ クーペは、2004年から2005年かけてのレースでその卓越した走りを見せました。

2005年のシーズンに向けて、ポルシェは最高出力400PSの911 GT3 カップ(タイプ997)を用意しました。当初この車は、スーパーカップ専用のレーシングカーという位置づけになっており、ブレーキシステムには、ポルシェ・セラミックコンポジット・ブレーキ(PCCB)を採用していました。しかし登場から1年が経過すると、世界中で開催されるポルシェのワンメイクにその姿を見せるようになったほか、エアロダイナミクス性能が大幅に改良されたことで、全てのサーキットで新たな記録を樹立するという偉業を成し遂げました。2008年以降、この911カップカーのエンジンは、最高出力が420PSになっています。

キャリア形成の場:20年の歴史を持つポルシェ カレラカップ ドイツ

カレラカップがドイツで始まって以来、経験豊かなポルシェのスペシャリストとシーズンドライバーは、公平なレギュレーションのもとで、若くて野心に満ちたチャレンジャー達と、ポイント、名声、賞金の獲得にむけて直接対決を繰り広げてきました。

初代王者に輝いたのは、1984年と1985年のドイツツーリングカー選手権で2位に入ったベテランドライバー、オラフ・マンタイでした。レーサーとしての長いキャリアを持つマンタイは、現在、レーシングカーをチューニングする企業を経営しています。1955年生まれのマンタイは、2001年と2002年、チーム監督としてドイツツーリングカー選手権に参戦しました。そして2006年から2008年にかけて、UPS–ポルシェ ジュニアのチームを率いたほか、2006年から2009年のニュルブルクリンク24時間レースでは、ワークスがサポートするメンバーとともに911 GT3を走らせ、見事に勝利を収めました。

オラフ・マンタイ(1990年度優勝)は、次のように語っています。「実際のところ、私は1990年のカレラカップ出場を熱望していたわけではありませんでした。なぜなら当時の私は、BMWのマシンでレースに参戦しており、BMWとポルシェの性格が全く異なることから、964が全く好きになれなかったのです。しかし、そのシーズンを通して次第にポルシェが好きになり、勝利を手にしてからは、ポルシェのマシンだけを操縦するようになりました。カレラカップが成功した理由は非常に明らかです。ドライバーとチームが一体となり、最高レベルの技術をそこで披露しているからだといえます。そのクオリティは非常に高く、優勝を目指すのであれば、幅広い経験と知識を蓄えていかなければなりません。ポルシェとそのワンメイクレースが、今後も頂点の座を維持していくことが私の願いです。」

1991年のカップレースで優勝したローランド・アッシュは、このカレラカップに参戦するようになる前、ドイツのヒルクライムレースを3度制したほか、ドイツツーリングカー選手権でも好成績を残しており、944ターボカップでは3回総合優勝に輝いています。アッシュはその後ドイツツーリングカー選手権のレギュラ—となり、1993年には再び2位の座を獲得しました。彼の息子セバスチャンも、2009年にはポルシェ カレラカップ ドイツに初参戦しています。
ローランド・アッシュ(1991年度優勝)は、次のようなコメントを残しています。「私はモータースポーツを通じて成長してきました。中でもポルシェのワンメイクレースは非常に大きな存在で、1991年の優勝は私にとって非常に意義のある勝利でした。週末にドイツツーリングカー選手権とカレラカップの双方に出場したこともありましたが、充実した時間を過ごすことができたと思っています。タイプ964の911はドリームカーであり、この車と私はひとつになっていました。私は息子と一緒にこの場に戻ってこられたことに嬉しさを感じています。カレラカップは偉大なレースです。このレースで活躍できれば、他のどのレースでも素早しい成績を収められるはずです。」

1967年生まれのウヴェ・アルツェンは、1992年のカレラカップで勝利を収めたのち、1994年にはポルシェ・ピレリ スーパーカップで優勝。さらに1999年のル・マンGTクラスを911で制したほか、1995年のスパ24時間レースとADAC GTカップでも優勝を飾るなど、数々の輝かしい成績を収めています。2006年にはポルシェ・ミシュラン スーパーカップとポルシェ カレラカップ ドイツに参戦してそれぞれ入賞を果たし、2007年には2度目のカレラカップ制覇を成し遂げています。

ウヴェ・アルツェン(1992年および2007年度優勝)は、「私は自身の小さなチームで1992年のカレラカップに参戦し勝利を収めました。この勝利は私にとって非常に大きな意味を持つもので、その後のキャリア形成のベースになりました。現在でもカレラカップは、ツーリングカーレースやドイツツーリングカー選手権への参戦を希望する若いドライバーにとって、ステップアップの場となっています。このシリーズでの優勝は極めて難しく、優勝すればトップパイロットとして認められるほどです。2007年に再びチャンピオンの座を獲得できたことを、私は素直に喜んでいます。このような時代、カレラカップのようにリーズナブルな価格でモータースポーツに参戦できることは、非常に重要なことだと思います。」と、話しています。

ヴォルフガング・ランドは1993年、41歳のときにカレラカップで優勝しました。輸送会社のオーナーである彼は、1997年にも王者の座を獲得しています。その後は現役ドライバーの座を退き、チーム監督および企業のマネージャーに転身して成功を収めています。

ベルント・マイレンダーは、1994年のカレラカップでタイトルを獲得しています。1971年に生まれた彼は、トップレーサーとしての地位を確立し、ドイツツーリングカー選手権などで活躍しました。現在ベルントはレーサーを引退しており、F1のオフィシャルセーフティカードライバーとしてレースに貢献しています。
ベルント・マイレンダー(1994年度優勝)は、次のように語っています。「私にとってカレラカップでの勝利は、アマチュアレーサーからプロのレーサーになったことを意味するものです。また、ドイツツーリングカー選手権でキャリアを重ねていくうえでも、このタイトルを獲得したことが最も価値のある経験であったといえます。カレラカップに出場することで、比較的早い時期に、車重1,000 kg程度のハイパフォーマンスカーを運転するチャンスが得られました。

しかしこうしたマシンは極めて高い技術をドライバーに要求してくるため、その操縦は決してやさしいものではありませんでした。こうした理由により、カレラカップは、今後もツーリングカードライバーにとっての最高のスクールであり続けることでしょう。歴代優勝者をリストアップしただけで分かることは、全てのドライバーが現在でも素晴らしい地位を手にして活躍し続けているということです。こうした状況を生み出せるのは、カレラカップ以外にありません。ポルシェカレラカップドイツは、まさしく世界一のプロフェッショナルシリーズであるといえます。」

ハラルド・グロースが1995年のカレラカップで優勝したとき、彼はレーサーになってからすでに20年以上が経過していました。1944年に生まれたグロースは、ツーリングカーの一流ドライバー、また962Cのようなレーシングカーのドライバーとして、当時すでに数々の伝説を残していました。現在彼は、イベント運営に加えて、車両の提供やロジスティクス業務を行う企業をマネージメントしています。

1996年はラルフ・ケレナーの年でした。数々の長距離レースで勝利を収めたほか、1998年と1999年のル・マンでは、僅差で総合優勝を逃してしまったものの、思わず息をのむようなパフォーマンスを何度も披露しました。1968年生まれの彼は、現在、人気のあるGTカーやプロトタイプカーのスペシャリストとして活躍しています。

1998年、ディルク・ミューラーは23歳のときにカレラカップを制し、レ—サ—としてのキャリアに大きな実績を残しました。数年後、ファクトリードライバーとしてWTCCに参戦。モナコに住む彼は、2008年に彼の原点であるGTカーレースにカムバックしています。

ルーカス・ルールは1999年、20歳のときにカレラカップのタイトルを獲得しています。実力をつけた彼は、その後ポルシェとワークスドライバー契約を結びました。そして2006年、彼はポルシェRS スパイダーでアメリカン・ル・マン・シリーズのLMP2クラスに参戦し、ペンスキーモータースに勝利をもたらしました。2007年以降は、アウディのワークスドライバーとして、プロトタイプカーのレースに出場しています。

2000年には、イェルク・ベルクマイスターがカレラカップのチャンピオンリストにその名を連ねました。若くて才能のある彼は、2001年のポルシェ・ミシュラン・スーパーカップを制しています。1976年生まれのベルクマイスターは、チームドライバーの一人として911 GT3 RSを駆り、2003年のデイトナ24時間レースでは総合優勝に貢献しました。長身でライン地方出身の彼は、2005年、2006年、2008年のアメリカン・ル・マン・シリーズにおいて911 GT3 RSRを駆り、GT2クラスのドライバーズタイトルを獲得しています。なお2007年以降は、ポルシェのワークスドライバーとしてアメリカン・ル・マン・シリーズに参戦しています。

2003年のデイトナ24時間レースで彼のパートナーを務めたのは、ティモ・ベルンハルトでした。彼は1981年に生まれたドイツ出身のプロドライバーで、2001のカレラカップでは、シーズン最終戦おいてベルクマイスターから王者の座を奪い取りました。現在ティモ・ベルンハルトは、プロトタイプカーのポルシェ ライリーを駆り、ポルシェのワークスドライバーとしてグランダムシリーズに出場しています。2007年と2008年のアメリカン・ル・マン・シリーズでは、ペンスキーレーシングのRSスパイダーを操ったベルンハルトが、他を大きく引き離してLMP2クラスのドライバーズタイトルを獲得しました。

ティモ・ベルンハルト(2001年度優勝)は、次のようにコメントしています。「ポルシェ カレラカップ ドイツは、私がプロドライバーとしてのキャリアをスタートさせたレースであるとともに、私が初めて優勝した大きな選手権でもあります。したがってこのシリーズは、現在の私にとっても非常に重要な存在です。自分よりも年上の経験豊かなドライバー達と対決したのは、このカレラカップが初めてでした。そして私はできるだけ未熟さを露呈しないよう、さまざまなことを急いで学びました。ドライバーをこうした状況に追い込むことがこのシリーズの成功理由です。また、ドライバーがカレラカップをプロの道に進むための踏み台とみなしている理由や、カレラカップを足掛かりとして、GTカーレースやドイツツーリングカー選手権へ進んでいく理由も同じです。2001年の最終戦は、私の記憶にしっかりと刻まれています。このとき私はイェルクを僅差で破り、チャンピオンの座を手にしたのです。それは非常に素晴らしい経験でした。」

2002年、22歳のマルク・リエブ(ドイツ)は、カレラカップへの参戦を開始してから3年目のシーズンをむかえ、過去最高の成績を残しました。自動車技術を学んでいた彼は、シーズン中に4連勝を成し遂げ、その年のカレラカップを制したのです。現在、リエブはポルシェのワークスドライバーの一人として活躍しています。2006年、彼は2年連続でル・マン・シリーズのGT2チャンピオンに輝き、2005年にはFIAのGT選手権でGT2クラスを制しています。さらに2007年と2008年のル・マン・シリーズにおいては、プライベートチームの911 GT3 RSRを駆り、 総合2位の座を獲得しました。2009年度は、ポルシェのワークスドライバーとして数多くのレースに参戦します。

マルク・リエブ(2002年度優勝)は、次のように話しています。「ポルシェ カレラカップ ドイツとポルシェ ジュニアチームで経験を積んだことから、私は一気に国際的なレーサーの仲間入りを果たすことができました。年上のベテランを相手にした厳しい戦いと、この有名なシリーズレースでのデットヒートは、私にとってのかけがえのない経験であり、多くのことを私に教えてくれました。私が学んだものの中には、今日でもレースで決定的な効果を発揮するトリックなども含まれています。概して言えば、シリーズでの時間は、私に大きな影響をおよぼしました。私はこうした経験ができて良かったと断言できます。」

2003年、ケルン出身のフランク・スティップラーは、モータースポーツの歴史を次のように記しました。彼はカレラカップで優勝した最初のドライバーであり、同じ年にポルシェ・ミシュラン・スーパーカップでも勝利を飾っています。2000年と2002年のカレラカップでも、彼は入賞を果たしています。その後はマシンをアウディに変え、ドイツツーリングカー選手権でその実力を発揮しています。

2004年のシーズンを制したのは、ドイツのマイク・ロッケンフェラーでした。スイスに住む21歳の彼は、9戦中5つのレースで勝利を収めたほか、最速ラップ数6回、ポールポジション獲得数5回という記録を打ち立てています。ポルシェはその後、このロッケンフェラーをワークスドライバーとして迎え入れました。2005年、彼は21歳の若さでチームメイトのマルク・リエブとともにFIAのGT2ドライバータイトルを獲得したほか、FIAのGT選手権で史上最年少のチャンピオンに輝いています。2007年以降、ロッケンフェラーはアウディのドライバーとしてドイツツーリングカー選手権に出場しているほか、ル・マンのプロタイプレース(LMP1)でも活躍しています。

マイク・ロッケンフェラー(2004年度優勝)は、次のように話しています。「カレラカップ ドイツに参戦を繰り返してきたことと、ポルシェ ジュニアチームのメンバーであったことは、私のキャリア形成に大きな影響をおよぼしました。私は18歳の時にフォーミュラコーニング(Formula Koenig)を後にしたため、早くから年上のベテランドライバー達と顔を合わせ、不慣れな環境の中でプロフェッショナルレベルの戦いを強いられました。しかし、私はそこから非常に多くのことを学びました。車両に対する変更は一切認められていないため、レースは全員が同一のマテリアルで行います。したがって、好成績を収めるには自分自身の努力が必要になるのです。これは非常に難しいことですが、素晴らしい環境の中で、非常にエキサイティングで有益な時間を送ることができたため、自身のその後のキャリア形成にプラスの影響をもたらしたと思います。私が依然としてこのシリーズに強いつながりを感じているのは、こうした理由によるものです。」

2005年のカレラカップを制したのは、34歳の経験豊かなドライバー、クリスチャン・メンツェルでした。ニュルブルクリンクの近くに住むメンツェルは、1999年に早くも2位を獲得しており、2005年のシーズンは、彼にとってカレラカップ6度目の挑戦でした。彼がレースを始めたのは1993年で、1998年にはニュルブルクリンク24時間レースで優勝。その後2001年にデイトナ24時間レース(米国)でクラス優勝を果たしたほか、2000年にはワークスドライバーとしてドイツツーリングカー選手権に出場しています。2008年、彼は自身が新たに設立したチームでカレラカップ アジアに参戦し、入賞を果たしています。

ディルク・ヴェルナーは2006年カレラカップで初めてフルシーズン出場し、見事優勝を果たしました。このシーズン、彼は1位に2度輝いたほか、表彰台に5回上がっています。こうした好成績を収めたのち、1981年生まれの彼は、2007年のシーズンもポルシェのモータースポーツ活動を支え続け、アメリカン・グランダム GTシリーズで総合優勝を果たしました。ヴェルナーは2008年、アメリカン・ル・マン・シリーズ、グランダム GT、BFグッドリッチ長距離耐久選手権にプライベートチームで参戦。2009年にはワークスがサポートするGT3 RSRでアメリカン・ル・マン・シリーズに参戦しています。

2007年、ウヴェ・アルツェンは2度目の選手権タイトルを獲得し、シリーズの歴史にその名を残しました。またポルシェ・モービル1 スーパーカップでは、3度目の総合優勝を果たしています。

2008年の最終ラウンドである第9戦、この日に22歳の誕生日を迎えたレネ・ラストは、同年齢の最強ライバルであるヤン・ザイフェルトを破り、タイトルを獲得しました。シーズンの初戦で勝利したのち、彼は2位を3回、3位を2回獲得して表彰台に立っています。彼の速さは、ポールポジションを3度獲得していることからも明らかです。ドイツ東部出身のこの若いドライバーは、2007年に初めてカレラカップ ドイツに参戦しました。

9シーズン目に突入したカレラカップ ジャパン

カレラカップ ジャパンは2001年よりスタートし、今年で9年目を迎えています。初年度は年間5レースでタイトルが争われました。今年は10レースを開催し、2つのクラスで熾烈なチャンピオン争いが繰り広げられています。2007年からはF1日本グランプリのサポートレースとして開催されるなど、カレラカップ ジャパンは最速のワンメイクレースとして進化を続けています。

カレラカップ ジャパンの第4戦、第5戦は、6月13日(土)、14日(日)に富士スピードウェイで行われる『富士ワンメイクフィスティバル』にて開催されます。

各種の記録を持つ歴代ドライバー(1990年-2009年)

最多勝利ドライバー:ヴォルフガング・ランド (14回)
最多連勝ドライバー:ローランド・アッシュ(5回)
シーズン最多勝利ドライバー:ローランド・アッシュ、マイク・ロッケンフェラー、リチャード・ウエストブルック(各5回)
最年少優勝ドライバー:ルーカス・ルハー(20歳)
最年長優勝ドライバー:ハラルド・グロース(51歳)
最多ポイント獲得ドライバー:ヴォルフガング・ランド(178ポイント)
最多ポイントアドバンテージ獲得ドライバー:ローランド・アッシュ(57ポイント)
ポールポジション最多獲得ドライバー:フランク・スティップラー(8回)
最速ラップ最多達成ドライバー:ヴォルフガング・ランド(15回)

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