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F1ドライバー

F1 | セルジオ・ペレス(Sergio Perez) 2019年

セルジオ・ペレス(Sergio Perez) 2019年

メキシコ / レーシングポイントF1チーム /

ゼッケンNo. :11

●国籍:メキシコ
●生年月日:1990年2月26日(28歳)
●身長/体重:175㎝/68㎏

●出走:21回
●優勝:0回(勝率:0%)
●表彰台:1回(獲得率:4.76%) 
●入賞:12回(入賞率:57.14%)
●完走:19回(完走率:90.47%) 
●PP:0回(獲得率:0%)
●Q3進出:10回(進出率:47.61%) 
●Q2進出:18回(進出率:85.71%)
●FL:0回 
●予選平均順位:11.42位
●決勝平均順位:9.78位

●F1デビュー:2011年第1戦オーストラリアGP
●在籍チーム:ザウバー(2011~12年)→マクラーレン(13年)→フォース・インディア(14年~)
●出走:155回 
●優勝:0回 
●PP:0回
●FL:4回 
●表彰台:8回 
●入賞:92回
●通算獲得ポイント:592点
●ドライバーズ選手権最上位:7位(2016~17年/フォース・インディア)

■セルジオ・ペレス プロフィール

 兄とともにモータースポーツの英才教育を受け、6歳のときにはカートの競技デビューを果たしている。1年目の1996年は、メキシコ国内のジュニアクラスで4勝。翌97年からユースクラスに昇格し、2年で同国最年少のシリーズチャンピオンとなる。

 以降クラスをステップアップしながら、2003年までカート生活を続けた。すでにこのカート時代、メキシコの実業家で世界的な大富豪として知られるカルロス・スリムからの支援を受け始めている。

 04年米国に渡り、初フォーミュラとなる『スキップ・バーバー・ナショナル・チャンピオンシップ』参戦。1年で今度はヨーロッパに向かい、ドイツを拠点としたレース活動を始める。05、06年の2年間は同国のフォーミュラ・BMWを走ったが、3度の表彰台獲得で留まる。

 06年のシーズンを終えると当時存在したドライバーの国別対抗戦『A1グランプリ』に2レースのスポット参戦があったが、ここでも結果は残せず。07年は英国に移り、キャリアの浅いドライバーが対象の同国F3『ナショナルクラス』参戦。21戦で14勝を挙げて、タイトルを手にした。08年は英国F3本戦にステップアップし、4勝でランキング4位となる。

 この英国での2シーズンを終えると、F1への登竜門GP2(現FIA F2)に進出。08-09年にまたがって行なわれたアジア・シリーズをまず走り、11レースで2勝の結果を残す。しかし09年のメインシリーズは未勝利の表彰台2回で、シリーズ12位で終えた。この年の末でチームを移籍し、アジア・シリーズ4レースの出走を経て、2年目のGP2本シーズン。5勝と大きな前進はあったが、総合2位でタイトル獲得は逃した。

 翌11年に向けては、ザウバー(現アルファロメオ)からのF1デビューが発表となる。ただ同時にスリム率いる企業グループが同チームの支援を決め、当初はペイ(資金持ち込み)ドライバーと見られていた。同じタイミングで、フェラーリ・ドライバー・アカデミー(FDA=若手ドライバー育成プログラム)入りも果たす。

 ザウバー時代のチームメイトは、小林可夢偉。11年のF1デビュー戦オーストラリアは7番手フィニッシュしたものの、レース後の車検でリヤウイングが技術規定違反とされ、結果除外となる。第5戦のスペイン9位が、あらためてF1での初入賞となった。

 だが続く第3戦モナコ、初めての進出となった予選Q3中に大クラッシュ。脳震盪ほかの診断でこのモナコ、次戦カナダはFP1は出走したが体調不良を訴えて2戦のレース欠場を強いられる。復帰後は4回の入賞で、クラッシュ後遺症が残っていないことを証明した。

 ザウバー2年目の12年は第2戦マレーシアで、優勝まであと一歩のところまで迫った。極端に不安定な天候で赤旗中断までも挟むなか、レース終盤のドライコンディションでタイヤの状態が悪い首位フェルナンド・アロンソに対し、1秒差にまで追い詰める。だがコーナーでワイドに膨らんでしまい、ふたたびギャップをつくられ、その後は振り切られた。くやしい2位だったが、F1初表彰台を手にした。

 このシーズンはいずれも巧みなタイヤ管理で、さらに2度の表彰台を記録。FDA所属であることからフェラーリ加入もささやかれるほどだったが、13年の移籍先としてはマクラーレンを選択する。当然のことながら、同時にFDAメンバーからは外れた。

 ところが、12年までのマクラーレンは優勝争いの一角を占めるチームではあったが、ペレス加入の13年は一転して不調。同僚で09年のドライバーズチャンピオン、ジェンソン・バトンも含めて1度の表彰台もなかった。

 チームとの関係性も悪化し、1年でマクラーレンを去って、14年のフォースインディア(現レーシングポイント)入りを決める。新天地では3戦目バーレーンで3位フィニッシュし、表彰台返り咲きを果たした。

 その後はチームとの契約を更新しつつ、15、16年と計3度の表彰台を記録。16、17年は連続して選手権3強チーム(メルセデス、フェラーリ、レッドブル)のドライバーたちに次ぐ、ランキング7位をマークしてシーズンを終える。

 18年は第4戦アゼルバイジャン3位で、キャリア8度目となる2シーズンぶり表彰台。しかしながら当時のオーナーからの資金流入が断たれ、チームは深刻な財政難に陥る。崩壊危機にペレス自身も動き、新オーナーを迎え入れて第13戦時点からレーシングポイントにエントリー名を改めて存続。19年も残留して闘い、8月の終わりには20年からの新たな3年契約締結が発表されている。

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