2021年F1世界選手権は、ドライバーズタイトルを争うふたりのドライバーが同点で最終戦を迎えるほどの熱い戦いが繰り広げられている。2005年からF1参戦を続けるレッドブルにとっては、5回目のタイトルを懸けた戦いだ。
今年で17年目のシーズンを戦うレッドブル、その全身チームであるジャガー時代をリアルタイムで見ていない人も、それだけの時間が流れたわけだからファンの中にはだいぶ多くなったのではないかと思う。さらに言えば、この系譜にはさらに前身が存在する。それが今回の主役のスチュワート・グランプリだ。
F1の複雑な構造のひとつに「チーム=コンストラクター」という定義がある。F1に参戦するチームは自前でクルマを作りレースに出ることを意味するのだが、歴史的観点から見た場合に非常にまどろこしい状況を生む場合がある。それを説明していると膨大な文字数を消費してしまうので、ここでは割愛するが、記録を統轄するコンストラクターの定義の前ではスチュワート、ジャガー、レッドブルは別物であるが、実際に活動する組織としては“同一線上”と解釈できるわけだ。
スチュワートGPの創設者ジャッキー・スチュワートは、3度F1を制した元ワールドチャンピオン。“タイトル獲得5カ年計画”を掲げ、フォードをバックにつけ1997年よりF1活動を開始する。3年目で成し遂げた初優勝は今も語種。同じ90年代に産声をあげたジョーダン、ザウバーとて、ここまで短時間に成功を収めることはできなかった。しかし、ジャッキーは勢いに乗るチームをパートナーのフォードに売却し、わずか3年で活動を終えてしまう。彼には彼なりの考えがあっての行動だった。その想いをインタビューでは語ってくれている。
毎号1台のF1マシンを特集し、そのマシンが織り成すさまざまなエピソードを紹介する『GP Car Story』最新刊のVol.38では、今季F1で大活躍のレッドブル・ホンダ、その始祖にあたるスチュワート・グランプリが大成功を収めたラストマシン『SF3』を特集する。
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1年目の1997年を振り返ると、今でも誇らしい気持ちになる。息子のポールと私とで新しいファクトリーをイチから立ち上げた。設備や工作機械にそんなに金を掛けられないし、そういうことも含めて最初の年は大変だった。
私たちが注ぎ込んだ時間は膨大、あれほど苦労した時期は後にも先にもない。当時、私はスイスに住んでいたが、英国政府から特別に許可をもらいイギリスに戻り暮らすことにした。もちろん家はそのままにしたが、精神的にも肉体的にもタフだった記憶がある。
現役時代だって大変だった、年間60~65戦に出場していたから当然さ。当時のF1は今みたく大金は稼げない。だから、F2、ツーリングカー、GTカー、インディカーと依頼があればどこへでも喜んで駆けつけた。
引退後もなぜかF1との縁は切れず、ABCやワイド・ワールド・オブ・スポーツなど、テレビの仕事は随分やったな。グッドイヤーやフォードなどとも関係を保っていた。それでもスチュワートGPを立ち上げた時が人生でもっともキツい時期だったのは確かだね。
■ロン・デニスの心遣い
1997年車の発表会はそれはすごかった。あそこまで華々しい顔見世をやったチームはそうはないはず。大半はフォードのウォルター・ヘイズが仕組んだことで、彼は企業広報の世界では知られた存在だ。私が出会った中でも最高の腕利きのひとりさ。
開幕戦ではポールと私のプライドをくすぐる出来事があってね。ピットレーンの末席とはいえ、我々には晴れの初陣。その端っこのガレージに、なんとロン・デニスがわざわざ挨拶に来てくれたんだ。マクラーレンは最上席だからかなりの距離になる。ふらりとやってきて子細ありげに見回していたが、私と目が合うとコクリと頷いて一言、「立派なもんだ」。
ポール・スチュワート・レーシングで下位カテゴリーの実績はあるものの、F1ではポッと出の新参にすぎない。そんな我々のところにトップチームの代表がはるばる足を運び激励してくれた。誇らしい気分にもなろうってものさ。無論、ポールも同じ気持ちだったよ。
モナコでのルーベンス(・バリチェロ)の2位は、まさにうれしい驚きだった。私も含めスタッフの誰ひとり予想していなかったことだからね。ミハエル(・シューマッハー)が1コーナーでオーバーランして、それでもエンジンを止めなかったのは彼らしいしぶとさだ。あれさえなければ我々が勝っていたかもしれない。私は最初からルーベンスは一流だと思っていたが、それが証明されたレースだった。
モナコで私は何度も勝っている。でも、あのときほどスリルを感じたことはない。F3で1勝、F1では3勝、それは自分でも誇らしく思っているが、チームオーナーとして味わう喜びは、ドライバーの時とはまた別物。実は表彰式直後、列席していたモナコ皇室の方々からお召しを受けた。私とポールがすぐさま出向き、挨拶をさせていただいたが、あれも本当に誇らしく名誉な出来事だったね。
1997年シーズンの後半はややジリ貧となったが、新参チームにありがちなことかもしれない。しかし我々は、初年度をどうにか黒字で終えられた。実は参戦していたいずれの年も赤字は一度もなく、これはプライベーターとしてはかなり希有だと思う。