23日、ニッサン/ニスモは2015年からル・マン24時間レース/WEC世界耐久選手権のLMP1クラスに『ニッサンGT-R LMニスモ』で参戦することをロンドンで発表した。ニッサンがワークスとして、総合優勝を狙うカテゴリーに参加するのは1999年以来、16年ぶりのことだ。レギュレーションに翻弄されながらも、勝利を目指したニッサンのル・マン挑戦を簡単に振り返ってみよう。
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●ニスモと星野一義との“約束”
1982年の秋、富士スピードウェイでWEC世界耐久選手権が初めて開催された。美しいボディと高いクオリティのシャシー、そして圧倒的な強さ。グループC黎明期をリードするポルシェ956の威容は、日本の自動車メーカーに衝撃を与えた。翌年からニッサンはグループC活動をスタートさせるが、初めてのWECはエンジンこそ共通だったものの、ニッサン勢は異なるシャシーを各チームが採用。83年こそ星野一義/萩原光組インパルの23号車がポルシェ勢に続く7位となるが、まだまだ差は大きなものがあった。
翌1984年、ニッサンはモータースポーツ専門の子会社、ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(ニスモ)を設立し、故難波靖治氏が初代社長に就任。ニッサンのレース活動は少しずつ強化されていく。
当時、すでに“日本一速い男”の異名をとり、中嶋悟とF2でしのぎを削っていた星野一義率いるチーム・インパルとニッサンは、1985年にマーチ85Gを投入。アメリカでニッサン車を使用しIMSAシリーズに参戦していたエレクトラモーティブが手がけたVG30エンジンを搭載し、パワフルなエンジンパワーとともに、秋のWEC世界耐久選手権に向け調子を上げていた。
この年、10月6日に開催されたWECの決勝レースは大雨となる。予選でマーチ85G/VG30はポルシェ勢を追いつめる活躍をみせたが、ポルシェワークスやプライベーターチームは、強い雨の中続々と棄権を選択する。そんな中、首位に立っていた星野は、スタート前に難波社長とある約束をしていた。
「優勝したらル・マンへ行くぞ」
強い雨の中、途中スピンを喫する場面もあったが、恐怖に打ち勝ち星野はドライバー交代も行わず、トップでチェッカーを受けた。悪天候でワークス棄権という状況こそあったが、世界選手権での大金星。「ル・マンで勝たなければ一流ではない」。ニッサンは1986年からのル・マン挑戦を決めた。
●ル・マンにそびえる高き壁。ふたりのキーパーソンの加入
1986年、ニッサンはル・マン24時間に初挑戦を果たした。マシンは23号車が新型のマーチ86G・ニッサンで、32号車は信頼性十分のマーチ85G・ニッサン。予選からアクシデントが多発し23号車はフライホイールのトラブルでリタイアを喫するも、32号車は粘りの走行を続け、16位フィニッシュ。まずは完走という結果を得た。
翌1987年、新たに3リッターV8のVEJ30エンジンを開発し、ニッサンは新たにマーチ製R87Eを2台投入。チームルマンがマーチ86SにVG30エンジンを搭載したR86Vで参戦した。しかし、エンジントラブルが多発し、3台はいずれも完走ならず。2年目の挑戦は全車リタイアという結果となった。
しかし、その年の8月、ニッサンのグループC計画には重要なキーパーソンが加わる。その後数多くの“名機”と呼ばれるエンジンを生み出す、林義正がスポーツエンジン開発室に加入。まず、トラブルが多発したVEJ30エンジンを“蘇生”させた林は、VRH30という新エンジンを生み出した。
1988年、マーチ製R88Cに搭載されたVRH30は高いパフォーマンスを発揮。翌年に続く可能性を感じさせた。そして、林に招かれた水野和敏は、シャシー面でもさらに高いパフォーマンスが必要と判断。これまでのマーチからローラとの共同開発に切り替え、1989年向けのマシンを開発した。
●トップに迫るポテンシャルをみせたR89C
1989年、林はVRH30の排気量を拡大させたVRH35を開発。一方、ローラと共同開発されたR89Cは、今までのR86〜87シリーズとはまったく異なる外観となり、スネッタートンでシェイクダウンを担当したジュリアン・ベイリーは、興奮してそのインプレッションを語った。この年からル・マンとWEC富士のみのようなスポット参戦は認められず、ニッサンはトヨタやマツダとともにWSPC世界プロトタイプカー選手権にフル参戦を行い始めた。
WSPC初戦ディジョンではマイナートラブルに見舞われたものの、そのパフォーマンスの片鱗をみせる。そして迎えた6月のル・マン。この年から、オペレートは23号車が日本のニスモ、24号車がニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NME)のオペレート、25号車は北米IMSAで最強の存在となっていたエレクトラモーティブのオペレートという日米欧連合での体制となっていた。
予選では、24号車が予選12番手からスタートするが、決勝に向けて調子を上げたR89C勢は、スタート直後から華々しい戦いをみせる。ベイリーが駆る24号車は、ザウバー・メルセデス勢やジャガー勢が占める上位陣を切り崩し4周目には3番手まで浮上。しかし、6周目のミュルサンヌでベイリーは前を行く2号車ジャガーとクラッシュしてしまい、早々にリタイアを喫してしまった。しかし、当時最強の存在だったライバルたちを追いつめる光景は、日本のファンからするとインパクトは十分だった。
さらに、23号車、25号車ともトップ10圏内に進出し高いポテンシャルをみせつけたが、23号車は深夜に、25号車は早朝にリタイア。可能性を感じさせた89年の挑戦は幕を閉じた。ただ、R89Cはその後もドイツ・スーパーカップを制するなど、ライバルに“ニッサン侮り難し”の印象を与えた。
●総勢7台の大艦隊。必勝を期した90年
R89Cの活躍で大いに期待を抱かせたニッサンのル・マン挑戦は、1990年にクライマックスを迎えた。マシンは2種類。ローラ製のR89Cをベースに、フロントサスペンション等を改良させたR90CKをNME、そして北米のニッサンの活動を担う組織としてエレクトラモーティブから成長したNPTIが担当。それぞれ2台を走らせることになった。
一方、ニスモは日本独自のシャシーを開発。鈴鹿美隆が手がけた空力パッケージを採用したR90CPを投入する。ニッサンワークスだけで総勢5台。クラージュ、チームルマンというサテライトを合わせると、総勢7台という体制でル・マンに臨んだのだ。
言い訳の利かない体制が敷かれ、新たにユノディエールに設けられたシケインは“ニッサンシケイン”と名付けられ、公式プログラムの表紙もニッサンに。ペースカーもフェアレディZとなった。そんな期待に応えるかのように、予選用スペシャルエンジンを投入したNMEの24号車R90CKは、マーク・ブランデルが1200馬力を絞り出すアタックをみせ、ル・マンで初めてのポールポジションを獲得。ニッサン勢は予選上位にマシンを並べることになった。
しかし、もともとポール争いはしない約束だった日米欧の3チームの間がこの予選の後、一気に険悪となる。NMEとNPTIのスタッフが殴り合いのケンカをはじめ、ニスモが間に入るほど。決勝に向け、本来あるべきマシンの情報交換がなされないまま、R90CKは続々とストップしていった。
残るニスモの23号車R90CPは5位でフィニッシュ。NPTIの84号車は17位でフィニッシュした。結果から言えば、ニッサンのグループCカーによるル・マン挑戦はこれで終わりを迎えた。その後、グループCレギュレーションに翻弄され、ニッサンのCカーがル・マンに戻ることはなかったのだ。国内では最強のグループCカーに成長し、1992年にはデイトナ24時間勝利という結果こそ収めたのだったが。
●GT-Rのル・マン初挑戦。そして初表彰台
1994年、グループCカーによるル・マンの全盛期は終わりを告げ、サルト・サーキットの主役はGTカーに変貌し始めていた。同様に、日本でもグループCレースは終わり、JGTC全日本GT選手権が誕生。グループAレースを退いたスカイラインGT-Rがその主役となった。2015年、ニッサンはGT-Rという名を冠しLMP1に参戦するが、GT-Rがル・マンを戦ったのは95年が最初だ。
ニッサンは、1995年にデビューするR33スカイラインGT-Rをル・マンに持ち込むことになり、ル・マン出場のためにベースの市販車を1台製作。その名もニスモGT-R LMと名付けられ、ベースはJGTCマシンながら、グループA仕様のエンジンを搭載した23号車と、信頼性十分のグループNエンジンを搭載した22号車の2台でル・マンに臨んだ。
このGT-Rの挑戦は95年は22号車が総合10位、96年は23号車が総合15位に。しかし、当時のGT1マシンはあっという間に先鋭化していく。ツーリングカー然としたGT-Rでは、すでに勝ち目がないことは明白だった。翌1997年、ニッサンは新たなGTカーを開発することに。トム・ウォーキンショー・レーシングと組み開発された車両の名は、R390。かつてGT-Rと密接な関係にあったプロトタイプカー、R380の名を継ぐものだ。
しかし、1997年のR390 GT1の戦いは厳しい結果に終わる。新たなイメージカラーであるブラックとレッドに彩られたR390は、予備予選までは速さをみせるものの、トランクのレギュレーションの解釈により行った車両改造の後信頼性を欠くことになってしまう。
翌1998年、信頼性を大幅に向上させ、ロングテール化等の改良を施したR390 GT1は、光る速さこそなかったものの、抜群の信頼性をみせる。結果的に、星野/鈴木亜久里/影山正彦組32号車が3位表彰台へ。ニッサンは初挑戦から12年で表彰台を獲得したのだった。
1999年、ニッサンはレギュレーションの流れを読み再びプロトタイプを投入する。パノスと共同で開発したR391は、1台が予選中にクラッシュ、もう1台はトラブルでリタイアと目立つ結果は残せないままル・マンを去った(ただし、年末のル・マン富士1000kmではトヨタTS020を破り優勝)。この後、ニッサンのル・マン挑戦は長きにわたって途絶えることになった。ニッサンも、そしてファンも夢見てきた総合優勝という結果は、いまだ果たせぬままだった。
●ル・マンに戻ってきたニッサン。そして……
2010年、ニッサンは09年までスーパーGT500クラスでGT-Rに搭載されていたVK45DEエンジンを、ル・マン規定のLMP2用エンジンとして供給することを発表した。ひさびさにル・マンに“NISSAN”の文字が戻ってくることになったのだ。
その実戦デビューとなった2011年、欧州日産はサルト・サーキットを舞台に大々的なキャンペーンを展開する。「11年の時を経て、ニッサンがル・マンに帰ってきた!」とプレスリリースでル・マン参戦をアピール。欧州日産がサポートするシグナテック、グリーブスのマシンには、大きく“NISSAN”の文字が入れられた。
さらにニッサンは、ル・マンを舞台にさまざまな活動を展開する。2012年には、ユニークなニッサン-デルタウイングを投入し、初めて設けられたガレージ#56枠で環境技術をアピール。LMP2、そしてガレージ#56枠での活動は2014年も続き、ニッサンは自慢の“ゼロエミッション・テクノロジー”をアピールするZEOD RCで今季のル・マンに挑む。そして、その“エキサイティングな夏”のはじまりに、ニッサンはル・マン24時間の総合優勝を狙うLMP1参戦を発表した。1986年の初参戦から29年。2015年、再びニッサンの“夢”への挑戦が始まる。