27日、ニッサン・モータースポーツ・インターナショナルの初代代表取締役社長を務めた難波靖治さんが、病気療養中のところ亡くなった。享年84。
難波さんは1929年7月16日生まれ。多賀工業専門学校機械科(現茨城大学工学部)を卒業後、戦後間もない1948年(昭和23年)に日産重工業(現日産自動車)に入社。設計部実験課の一員として乗用車の開発に携わったが、製造する車両の世界でのレベルを知るべく、1958年に当時の国際ラリーの中でも最も過酷であると言われたオーストラリア一周ラリー、モービルガス・トライアルに自らドライバーとしてダットサン210『富士号』を駆り出場した。
ともに出場した『桜号』とともに、19日間のラリーを戦った難波さんドライブの富士号は、外国車を打ち破りクラス優勝を達成。日本凱旋後は各地でパレードを行い、日本車の優秀性、丈夫さを証明。その後の日産車の海外輸出に大きく貢献するとともに、日本のモータースポーツの発展の礎を築いた。
その後対外的にはドライバーとしてではなく、特殊車両部第一特殊車両課長として日産の追浜ワークスを率いサファリラリーで多くの栄光を獲得。1984年に、日産のレース活動を担うニッサン・モータースポーツ・インターナショナル(ニスモ)が設立されると、初代社長に就任。ル・マン24時間をはじめとしたグループCカーでの挑戦など、世界的に日産のモータースポーツ活動を推し進め、ル・マンでは日本チーム当時過去最高の5位、デイトナ24時間での勝利など、多くの勝利を得た。
94年のニスモ社長退任後は、JAF日本自動車連盟の常任理事なども歴任。今年4月には、日本のモータースポーツ活動を彩ったドライバーのための組織、ゴールドスタードライバーズクラブの名誉会長に就任したばかりだった。
心からご冥福をお祈り致します。
運命を切り開いたクルマ: 富士号&桜号