レースを愛してやまないファンの方々へ
autosport web Premiumが登場。

詳細を見る

レーシングオン ニュース

投稿日: 2021.05.07 18:00
更新日: 2021.05.07 18:21

【忘れがたき銘車たち】“職人”が情熱を注いだ『つちやMR2』と土屋春雄さんからのお誘い/番外編

レースを愛してやまないファンの方々へ
autosport web Premiumが登場。

詳細を見る


レーシングオン | 【忘れがたき銘車たち】“職人”が情熱を注いだ『つちやMR2』と土屋春雄さんからのお誘い/番外編

 『Racing on』とオートスポーツwebのコラボでお届けしているweb版『Racing on』。これまで『忘れがたき銘車たち』と題して、懐かしのレーシングカーを紹介してきましたが、今回はちょっと番外編。JGTCのGT300クラスで伝説を残したつちやMR2と、そのMR2を手がけた土屋春雄さんと筆者の忘れられない思い出について語ります。

* * * * * *

 2021年4月11日、スーパーGT開幕戦岡山の決勝日でもあったこの日、つちやエンジニアリングの創始者として、数々の名レーシングカーを手がけられきた土屋春雄さんが亡くなられた。

 1971年に産声を上げたつちやエンジニアリングだから、マイナーツーリング、グループA、JTCC、JGTCなど、さまざまなカテゴリーに春雄さんの思い入れのあるマシン、情熱を注いだマシンがあったはず。

 そんなたくさんのレーシングカーのなかでも、特筆すべき伝説的な記録を残し、本誌取材で「今までの最高傑作に近いと思うし、走らせた4年間は本当に楽しかった」と春雄さんが語るのが、1996~1999年までJGTCのGT300クラスを戦ったトヨタMR2(2代目/SW20型)だ。

 MR2は初代、2代目と全日本級のサーキットレースには参戦してこなかった車両だったが1996年、発足から3年目を迎えたJGTC GT300クラスに『imuraya BP MR-2』がエントリー。

 この車両を皮切りに徐々にGT300に参戦するMR2が増えていくことになる。そんななか、同年の第5戦スポーツランドSUGOで、つちやMR2はデビューを果たす。

 つちやエンジニアリングは1996年当時、トヨタ・コロナエクシヴを使ってもうひとつの全日本選手権であるJTCCも戦っていたが、それよりもクルマに対する制約が少なく自由度が高かったことからJGTCへの参戦を決意。

 ベース車両にMR2を選択したのは、GTはFFでは戦いたくなかったという意向があったこと、TRDの協力で中古のテスト車のボディを提供を受けられたことが理由のひとつだった。
 
 その後、提供されたボディをベースにつちやエンジニアリングのノウハウをふんだんに使ってロールケージを組み、余っていたというJTCCのカローラセレスなどで使用していた部品を使い、マシンを製作した。

 完成した車両は他のMR2よりも大幅に軽く、車重は1000kgを切っていた。だが軽く仕上がりすぎたため、バラストを積むところがなくなり、ドアやガラスをノーマルに戻したほどだった。

1996年のSUGOラウンドにスポット参戦したつちやMR2。車重が軽くなりすぎ、重量を重くするためにドアを純正に戻したため、ドアが黒くなっている。
1996年のSUGOラウンドにスポット参戦したつちやMR2。車重が軽くなりすぎ、重量を重くするためにドアを純正に戻したため、ドアが黒くなっている。

 迎えたデビュー戦は、マシンの完成がレースウィークの水曜日で、ドライブする織戸学、土屋武士のふたりがトラックを使いマシンを徹夜でサーキットへ運ぶなど慌ただしいものだったが、走り始めるといきなり速さを見せる。

 予選で2番手につけると、決勝でも一時はトップを走るなど快走。最終的には4位フィニッシュだったが、鮮烈なインパクトを与えた初陣となった。1996年はこの1戦のみの参戦だったが、1997年からはシリーズ参戦。第3戦仙台ではそれまでNAだったエンジンをターボへと換装。このラウンドで初優勝を飾った。

1997年にはカラーリングがブルーになり、第3戦仙台からターボ化。土屋武士/長島正興組がドライブしていた(オールスター戦のみ小幡栄/長島正興組に)。
1997年にはカラーリングがブルーになり、第3戦仙台からターボ化。土屋武士/長島正興組がドライブしていた(オールスター戦のみ小幡栄/長島正興組に)。

 そして1998年、つちやMR2は伝説を残す。鈴木恵一/舘信吾組がドライブしたこの年、決勝が中止となった第2戦富士を除くと、“ほぼ全勝”であるシリーズ6戦中5勝をマークした(TIサーキット英田で行なわれたオールスター戦を入れる7戦6勝)。

 見事ドライバーズ&チームチャンピオンを獲得。唯一、土が付いたのは第5戦もてぎだったが、それもセーフティカー導入のタイミングによる逸勝だった。

 モモコルセ&アペックスカラーになった1999年は、前年ほどの圧勝とはならなかったが、最終戦もてぎまでに1勝を含む3度のポディウムフィニッシュを果たすなどしてタイトル争いを展開。もてぎ戦は子息・土屋武士の駆るザナヴィARTAシルビアに対して1点差のシリーズ2位で迎えたが、3位でフィニッシュし1点差で逆転。2年連続のダブルタイトルを獲得した。

 1996年のスポット参戦を除くと、シーズンを通して参戦した3年で2度のダブルタイトルという戴冠率の高さ、そして1998年のほぼ全勝劇。4年という短い参戦期間ながら、つちやMR2が見せつけた圧倒的強さは、今もGT史に燦然と輝き続けている。

* * * * * *

 ここからは、筆者の短いながらも忘れられない春雄さんとの思い出を記します。『Racing on』誌編集部員の私、実は愛車がSW20型のトヨタMR2です。今回紹介したつちやMR2は私にとって憧れの1台でもありました。

 そんな私が一昨年、弊誌No.503のGT300特集の取材で、つちやエンジニアリングにお邪魔する機会がありました。その日の取材は『モモコルセ・アペックスMR2』の車両撮影。特別な1台を間近で見られるとあって、少し特別な気持ちで愛車に乗り、伺いました。

 その取材の合間、「今どき珍しいのに乗ってるヤツがいるな」と思ってもらえたのか、春雄さんは私のクルマを見るなり、笑顔で「これくらいキレイなやつなら欲しいよな」と運転席に座ったり、車検証のスペックを見たりと、喜んでMR2についてお話いただきました。

 これがご縁で、春雄さんもMR2が少し欲しいと思ったのか(ハッキリ「ほしい」とは言ってませんでしたが……)、市販車の詳細や価格についてなど、私なんかに質問をいただいたりしていたのでした。

 そんななか昨年、春雄さんから「コロナで時間があったからMR2の3Sを新しくイジって組んだんだ。今度、遊びに来て、君のノーマルと比較させてよ」と、なんともありがたい、びっくりなお誘いをいただきました。

 しかし、そのお誘いの直後から新型コロナウイルスの感染者が再び都内で激増。「こんな時にお伺いするのは……」と躊躇している間に結局、叶わなくなってしまいました。後悔、先に立たずですね。

 お誘いいただいたのに本当にごめんなさい。直接お話できたのは短い間でしたが、忘れません。ありがとうございました。

鈴木恵一/舘信吾のドライブでシリーズ戦6戦5勝の伝説を残した1998年。シリーズ第5戦からカラーリングがシルバーに。
鈴木恵一/舘信吾のドライブでシリーズ戦6戦5勝の伝説を残した1998年。シリーズ第5戦からカラーリングがシルバーに。


関連のニュース