生年月日 | 2000年5月11日 |
国籍 | 日本 |
生年月日 | 1989年7月1日 |
国籍 | オーストラリア |
身長 | 179 cm |
体重 | 69 kg |
●チーム本拠地:イタリア・ファエンツァ
●デビュー:2024年第1戦バーレーンGP
●活動年:2024年~
●出走数:0
●勝利数:0
●PP獲得数:0
●コンストラクターズ・タイトル:0
●ドライバーズ・タイトル:0
●主要チームスタッフ:
ピーター・バイエル(チームCEO)
ローレン・メキース(チーム代表)
ジョディ・エギントン(テクニカルディレクター)
グラハム・ワトソン(チームマネージャー)
リアム・ローソン(リザーブドライバー)
レッドブルがセカンドチームとして組織し、若手をF1に引き上げる際、まずここで走らせるということが通例となっている。上層部を納得させるようなパフォーマンスを示せれば、待つのはレッドブルへの昇格だ。
セバスチャン・ベッテルはF1デビューこそBMWザウバー(現アルファロメオ)からのスポット参戦であったが、このルートをたどってレッドブルで4回のドライバーズタイトルを獲得した。次の成功例はダニエル・リカルドで、派遣のような形で現在は消滅したHRTで11戦を経験したのち、やはりこのルートでF1のレースウイナーとなる。そしてマックス・フェルスタッペンは一切の他チーム経験なしに、シーズン途中のレッドブル昇格緒戦で、いきなり勝つという離れ業を演じた。
その一方で脱落者たちも多い。少なくとも2~3年で結果を出せなければ、たちまち契約を切られるシビアさだ。
レッドブルのセカンドチームとしての発足は、本家に遅れること1年の2006年。前年11月に、既存チームの『ミナルディ』を買収した。
ジャンカルロ・ミナルディが自国イタリアに設立のチームは、ヨーロッパF2選手権(現在のFIA-F2とは異なる)等での活動を経たのち、1985年F1進出。ただ、絶えず低予算に泣き、チームとしてのベストは91年のコンストラクターズランキング7位だ。
その一方で有望な若手ドライバーがキャリアの扉を拓くチームとして知られ、アレッサンドロ・ナニーニ、ジャンカルロ・フィジケラ、ヤルノ・トゥルーリ、マーク・ウェバーがのちの移籍先でレースを勝ち、フェルナンド・アロンソは2度ドライバーズ王座に輝いた。日本人ドライバーでは片山右京が97年、中野信治が98年に在籍した。
並行して財政面の深刻化から複数のオーナーシップの交代があったが、ミナルディの名前は維持された。創設者ジャンカルロが完全にチームを離れたのは、レッドブル買収のタイミングだ。
レッドブルはチームをイタリアに残し、本拠地も継承。新チーム名は『スクーデリア・トロロッソ(レッドブルのイタリア語訳)』とする。06年2月にはF1通算10勝のゲルハルト・ベルガーがチーム株式を50%購入。共同オーナーとなってアドバイザーを務めたが、08年11月レッドブルにすべて買い戻され役職からも退く。
チーム1年目の06年はF1のエンジン規定が2400㏄V8にスケールダウンされた年だが、ミナルディから引き継ぐ形で前年までのコスワース製3000㏄V10を吸気と最高回転数に制限をかけて使用することが特例措置で許可される。翌07年はルノー乗り換えを図ったレッドブル本隊が、契約を残すフェラーリをトロロッソ側に割り当てた。
このチーム初期の時代、シャシー自製は行なわず、実質的にはレッドブルから供給されていた。『レッドブル・テクノロジー』という別会社を介することで、巧妙にシャシー自製の『原則論』を逃れる裏技だった。デビュー年は1年の型落ちが使われ、2年目の06年からは供給元が異なるエンジン周辺を除くとほぼ同一の設計となった。
これによって08年、珍事が起きる。予選から雨の第14戦イタリアで、トロロッソ時代のベッテルがポール・トゥ・ウイン。本家より先にF1初優勝を果たし、かつ年間のコンストラクターズランキングでも6位とレッドブルをひとつ上回った。
なおこの年9月から12月にかけ、佐藤琢磨が6日間のテスト機会に臨むが、翌年シートの獲得ならずにF1キャリア続行の望みを絶たれている。
規制強化となった10年からシャシーを自製するようになり、パワーユニット(PU)規定1年目の14年にサプライヤーをレッドブルと同じルノーに切り換えた。16年はそのルノーとレッドブルの関係険悪化を受け、1年落ちフェラーリPUの供給を受けた。
17年にPUはルノーに戻されたが、ここでもう1度大きな動き。マクラーレンとの提携解消やザウバーとの一時合意が白紙となり、翌18年のPU供給先を失いかねない状況に陥ったホンダから、契約の打診がされる。
1度は破談との報道もあったが、9月にパートナーシップ締結の発表が行なわれた。なお契約は、レッドブルによるトップダウンだったとされる。
18年はエントリー名を『レッドブル・トロロッソ・ホンダ』に変更。第2戦のバーレーンで、ホンダに15年復帰からの最高位を更新する4位をもたらした。このトロロッソが先兵役を務めたことで、レッドブルも翌19年からのホンダとの契約を決めた。
19年は荒れたレース内容ではあったが、第11戦のドイツでダニール・クビアトが3位に入り、08年のベッテル優勝以来となるチーム2度目の表彰台獲得。第20戦ブラジルではこれも大荒れの展開のなか、ピエール・ガスリーが2位でチェッカーに飛び込み、シーズンを過去最高タイのコンストラクターズランキング6位とする。
ただトロロッソの歴史はこの19年限りとなり、20年からはレッドブルが展開するファッションブランドの名を冠した『スクーデリア・アルファタウリ』として新スタートを切る。
2020年はコンストラクター名をスクーデリア・アルファタウリ・ホンダに一新。第8戦イタリアGPではガスリーがF1初優勝を飾ったが、この勝利は前身のトロロッソ時代から12年ぶりで、チームとしては通算2勝目。またホンダとタッグを組んで50戦目という節目のレースでの勝利となった。
コンストラクターズランキングでは7位に終わったが、獲得ポイントが100を超えたのはチーム史上初。2021年はクビアトに代わって角田裕毅を起用することが決まっており、7年ぶりとなる日本人ドライバーの活躍に期待がかかる。
2021年はF1で5年目のシーズンを迎えたガスリーと、ルーキーの角田を起用した。ガスリーは第6戦アゼルバイジャンGPでは3位に入賞し、キャリア3度目の表彰台を獲得。最終的に全22戦のうち15戦で入賞し、ドライバーズランキング9位という成績を残している。
ガスリーと角田のペアで迎えた2022年。この年はAT03のパフォーマンスが振るわず、ドライバーのパフォーマンスにも大きな影響を与えた。ガスリー、角田ともに入賞回数や獲得ポイント数は2021年を下回り、コンストラクターズ選手権は9位だった。なお2022年限りでガスリーがチームを離脱し、アルピーヌに移籍する。後任はメルセデスのリザーブドライバーを務めていたニック・デ・フリースだ。デ・フリースにはFIA F2をはじめフォーミュラEでもチャンピオンに輝いた実績がある。2022年はイタリアGPでアレクサンダー・アルボンの代役を務め、ウイリアムズからF1デビューを果たし9位に入賞した。
2023年は角田と、念願のF1のシートを掴んだデ・フリースのコンビを起用したアルファタウリ。だがマシンパフォーマンスの低さも相まってデ・フリースは苦戦し、イギリスGP終了後にシートを失った。後任としてチームに加入したのは、マクラーレンを1年早く離脱しレッドブルのリザーブドライバーを務めていたダニエル・リカルド。ところがリカルドはオランダGPの初日にクラッシュを喫して左手の中手骨を骨折し、土曜日からは日本でスーパーフォミュラに参戦していたリアム・ローソンが代役を務めた。5レースに出場したローソンはシンガポールGPで入賞を果たしたが、2024年のシートを得ることはできなかった。
一方角田も競争力の低さに悩まされ、シーズン前半の入賞は3回。シーズン後半はアルファタウリのアップデートが徐々に機能し始め、終盤戦のアメリカ、サンパウロ、アブダビで入賞。アブダビでは予選で自己最高位となる6番手を記録し、レースでは初のリードラップを記録した。なおアルファタウリは2024年より『ビザ・キャッシュアップRB F1チーム』とチーム名を変更する。
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