■平忠彦とのバトル
1985年をフレディ・スペンサー(ホンダ)、エディ・ローソン(ヤマハ)、クリスチャン・サロン(ヤマハ)に続いてランキング4位で終えたワイン・ガードナーは、翌86年にはローソンに次いでランキング2位に入った。
スペイン、オランダ、イギリスの3戦で優勝したガードナーとチャンピオンになったローソンとのポイント差は22点だった(当時は優勝すると15点)。この年はスペンサーが手首の負傷で欠場続きだったので、ガードナーが実質ホンダのNo.1ライダーとして各レースに臨んだのだ。
ガードナーは86年のGPシーズンが終わったあと日本へ飛び、9月14日に鈴鹿で行われた日本GP(世界GPの1戦ではない)の500ccレースに出場。
ヤマハYZR500に乗る平忠彦と最後までデッドヒートを繰り広げた。結局、平のマシンの方がストレートで速く、ガードナーは0.34秒差で平に敗れた。
後日、平は「ガードナーはライディングスタイルから見て気性の激しいライダーのように見えた」と語ったが、実際にはガードナーはひと一倍ナイーブで神経細やかなライダーだったような気がする。他人が自分をどう見ているかということを常に気にしていたようだったのだ。
■悲願の世界チャンピオン
1987年、ワイン・ガードナーは15戦中7勝を挙げて悲願の500cc世界チャンピオンになった。
この年から鈴鹿で日本GPが行われるようになり、当然ガードナーも勝利を目指したのだが、決勝レース当日、鈴鹿は雨となり、ダンロップタイヤをはいたランディ・マモラ(ヤマハ)が優勝した。当時、雨ではダンロップの方がミシュランよりもグリップが良かったのだ。
87年のガードナーはチャンピオンを獲得しただけではなく、15戦中10回ポールポジションを獲得した。そして最後から二番目のブラジルGPで優勝し、涙のチェッカーフラッグを受けたのだった。
ワイン・ガードナー
1977年に地元オーストラリアでキャリアをスタートし、1983年にロードレース世界GP(現:MotoGP)500ccクラスにデビューし、1986年スペインGPで初勝利。翌年はロスマンズ・ホンダのエースライダーとして強さを発揮し、年間7勝を挙げてオーストラリア人初の世界王者に輝いた。鈴鹿8時間耐久ロードレースにもホンダから参戦し、1985、86、91、92年で勝利を飾っている。1992年に二輪レースから引退し、四輪レースに転向。オーストラリアV8スーパーカーシリーズや全日本GT選手権(現:スーパGT)でも活躍を見せた。
著者:富樫ヨーコ
日本の二輪レース文化を伝える著述家のひとり。HRCで主に海外レース活動に従事しながら、二輪モータースポーツを中心に執筆活動を行う。レースの舞台裏にある技術者やライダーたちの情熱を描き続け、主な著書として『ホンダ二輪戦士たちの戦い(旧いつか勝てる)』、『ホンダNRヒストリー』、『ポップ吉村の伝説』、『選ばれしGPライダー』 、訳書に『バレンチーノ・ロッシ』、『ケニー・ロバーツ』、『ハイスピード・ライディング』などがある。
